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デリダ『パッション』
これで最後にします。 有賀 [2007/12/23,22:19:36]
●『パッション』(1993)
--『名を救う』『コーラ』と互いに呼応し、相互に照らし合う「一つの与えられた名に起こりうることついての三編のエッセー」。
 >〈異名=あだ名〉に負っていることについての三編のエッセー。

・どうすればわたしは儀式ばってはいないことになりうるだろうか?儀式めいたところがない、ということになりうるのだろう?
 >儀式の危機 ;システムの内の一つの要素が、自分は何をすべきなのかもう分からなくなる(=自分が矛盾し、両立しがたいことをすべきであると知ること--二重化した義務)
 >一つの秘密とは何か
・カント『人倫の形而上学の基礎付け』に抗して ;義務に応じて振る舞ってはならないという義務はあるのだろうか
 >意図、志向が欠如しているにもかかわらず外見を取り繕うことができると信じる過ち
  =義務から発して応える
 >友愛は規則や慣習の形式をとってはならない
  >>だが、規則を侵すことによってのみ友愛が可能になるというわけでもない
・礼儀正しさという概念の内的矛盾
 >規則を当然のこととして含み、かつまた規則のない創出を当然として含む
 >規則の名においても、規則への尊敬によっても振る舞うことなく行為せよ
・責任は曖昧さや矛盾なしにはとりようがなく、〈決定=決心〉の自己正当化は構造上の理由から不可能である
  --
   義務というのものの根が負債から生え出たものにすることへの分析を、省くべきではない。 
    >>負債の返却、元に戻すこと、借りを返すこと、こうしたことに基づいて為される所作は、非道徳的なものにとどまるだろう
    〜あらゆる狙いについて、差し戻したり、再び自己のものとして所有するという目論見の一切を、超出すべきである ;負債としての義務の彼方へ(負債なき義務)
 >今日の時代における次のような考察
1 バンヴェニストの引用 :「与える義務」と「返す義務」
(【ノートの制作者(私)によって要約してある】)
  >ラテン語のdebere、debeo「義務を負う」の意味を、「ある人からその所有物を得ること(借りること)」と解すると困難に陥る。というのもその場合、「誰それのおかげである(ある人に何かを負う)」という語が、理解不能になるからだ。(たとえば「家賃を払う義務を負う」ということは、借金の返済を意味しない。)
  >>ラテン語のdebeoは「他人に属するものを保持する」という意味であり、ゆえに、「与える義務」が生じる。たとえば、給料を支払う義務を言い表すときは、debeo、debereを用いる。
 >逆に、「負債」と「貸し借り」の間には密接な関係がある。
  >>相互性=互酬性
2 マラムーの引用 ;
 >近代ヨーロッパ諸語においては、devoirと「負債を抱える」との間には緊密な類縁関係がある。だが、それ以外の諸語において、そのような関係の認められない事例はいくつかある。
  >>たとえば、ジャクリーヌ・ビショーが日本語と中国語について行った言語学的分析によれば、そこでは、道徳的な負債の領域と物質的な負債の領域は区別されており、その両者いずれもdevoir(責務、蓋然性)に照応するような形態素に関係していない。【確かに、「負い目」には、勝ち負けの「負け」を用いる。】
 >cr(`)eance (負債、信頼、信用)の多義性
  >>〈仏〉「信仰」ともともと同じ一つの語
  >>〈独〉「信者」と「債権者」を意味する語
  〜しかし、「信用する、信用で売る(ツケで売る)」という言い回しと「信じる」という語の間には、さほど実りある関係はない
 >バラモン教によれば人間はこの世に負債として(死すべき者として)生まれる
  >>だが、このことは人間の本性が原罪によって規定されているということではない
  >>根本的負債と原罪の間に類似性はない ;負債は何らかの出来事の徴でも帰結でもない。そうではなく、一挙に人間を債務者の地位へと置くものである。(【非対称性】)
--
・責任と問題
 >問題=突堤(岬)
  --
   >cap(岬、頭、長、船首)、capital(重大なもの、主要なもの、元金、資本、資産)、capitale(首都、大文字)
   >front(前線、向き合うこと)
    →これらのタームの持つ問題系については『他の岬』を参照のこと
    →「前に投げ出されたもの、突堤」については『基底材を猛り狂わせる』を参照
  --
 >「問題」problemaは弁明を意味しうるし、他者の責任を肩代わりする者、他者に代わってその人であるかのように振る舞う者を意味しうる
 >責任とは問題的なものであり、自分の名によらず、他者の前にもない仕方でとるものであり得る(「自分の名において、他者の前で」というのが、これまでの形而上学による古典的な正義の定義である)
  >>責任は他者の名において、他者の他者の前で、取らねばならぬものであり得る
  →責任は義務や負債の経験には還元し得ず、請け合うことは知(解明)によって(〜かどうかを知る、ということ)は規定されない


・子どもはつねに問題である、そこにこそ真実がある
--
 ・子ども(青少年)は問題であり、問題は常に「子ども時代」である。
  >問題(≒神秘)とは、子どもに特有の問題提起的なところに起因する。
   〜後に、われわれ(デリダ)は、秘密を問題からも神秘からも区別する
 ・ソポクレスの『ピロクテテス』において、主人公のピロクテテスはプロブレマという語を代補的な用法で使っている。 ;(代行者、他者の名において来る者)
  >委ねられ、代行された責任、遠回しの責任
--

・ナルシシズムを、整合性を持って一貫した概念として打ち立てることは不可能である
 >以下の二つの場面において、最大の利益と最悪の没収を分離することは不可能であるがゆえに
 >>1 X(人、モノ、作品など)があなたの名や称号(痕跡)を冠されているとする
    --あなたはXにあなたの名を与えたがゆえに、Xに帰するものはあなたに帰する
      →あなたのナルシシズムにとっての利益(=恩恵)
    --しかし、Xはあなたなしにあなたの生なしに立派にすますため、あなたが受け取りを期待する利益は剥奪されている ;Xは回帰する場所(=あなた)を必要としないがゆえに、あなたはフラストレーションを抱く
 >>2 逆に、Xがあなたの名を受け入れないとする
    --Xは別の名を選ぶ。あなたの名に再帰性のなさが帰する。
      →あなたのナルシシズムの二重の傷
    --しかし、ナルシシズムはよりいっそう豊かになる。というのも、あなたの名を持ったものが自律し、あなたの名もあなたもなしにすますとき、あなたの名はあなたの名の内に消えることができるがゆえに自己へと回帰せず(再帰性がない)、すなわち贈与の(同時に所有権、保証、権威の)条件を満たすからである。
 →自己=私というものに、一義的な意味を与えることはできない
  ;自己として自己を語ること、まったく「儀式めいたところなしに」自己を語ることは不可能である
・斜めからの、遠回しの読書
 >というよりは、直接的な対決(一点から一点への最短行路)を避けないわけにはいかないということの未だなお粗削りな戦略
 >「批判的な読者」「自己批判的な読者」とは何か
  >>「X;ひとりの批判的な読者」という文の中では、誰が誰の読者なのかを知ることは難しい
・招待の条件
 >「来ても来なくても自由だが、君が来ないのは残念だ」などと、言外に含むべきではない
 〜招待は、ぜひそうしてくれとせがむものでなければならない
 >「君は来る義務がある、そうする必要がある」などと言えば、招待は拘束になる
 〜招待は人を自由にしておくのでなければ拘束になる。
 →招待の二重化、倍加 ;人を自由のままにしておきながら人質に取るのでなければならない
・モラルの再建?
 >ひとがモラルのセンス、法則の高さの感覚を持っている(法則の価値を知っている)から責任ある振る舞いをするというのは、当然であり自然によってプログラムされたことであって、道徳的ではない ;モラル法則への尊敬
  >>モラル法則への尊敬という問題にあるパラドックス
   〜モラルは感情や感性(【尊敬の念】)の内に、そこに記載されているはずのないものが記載されていることを説明できないし、感性的傾向に従わないものはすべて犠牲にせよとのみ命じるはずのものがまさに感性に記載されているということを説明できない。
  →犠牲、生け贄は、カントの道徳論の核心にある
>『実践理性批判』において、犠牲にされうるものとは「パトローギッシュ(感性的動因)」な利益関心の次元に属するものであり、モラル法則の前でへりくだらせる必要がある
 >>犠牲一般の概念が前提とするカント哲学における区別の装置
  〜(ここで探求されるのはカント的な意味での「パトローギッシュ」ではないようなパッションの概念であろう)
・務めを果たした満足、あるいは非の打ち所がない良心という信念によってこの世界と和解したディコンストラクショニストの共同体などというものに抗するための、応答しないことの正当化 ;非応答という応答
 >応えないという自由と権利は責任の一部を成す
・自分を受け合い、他者や法の前で応えなければならないと信じること、責任は善そのものであり第一の徳であると多くの人々は思っている。
・非応答のための範例 (自らの単独性=特異性をあふれ出す範例)
 1 「私」に語りかける人々の真ん中に座って、自分が言葉を語るのが自然なことであるかのように振る舞う過ち
    >>それぞれ精緻で、高潔で、甘くない重層的な戦略を持つそれぞれの言説のなかの一つである「私」が、それらを無視してまず「私」が応えることから始めるのだと自負するとしたら? 
    >>使徒たちとユダ。この状況は、デリダが『弔鐘』のなかでずっと解釈を続けてきた「他者を-食べる」ことそのものではないか?
 2 もし私が応えるとすれば、自分を〈応えることのできる〉と感じている人間の位置に自らを置くことになる
    >>ここに集められたすべてのテクスト、各人の作品とその行程、様々なモチーフや論拠、言説上の伝統、活用されている多数のテクスト等々を再構成しなければならない(=もう一度読まねばならない)ということを、見ようとしない人物 ;捧げものへの尊重を欠く人物
 3 以上の理由から、ある種の非応答こそ、規則なき礼儀正しさ(他者への尊重、責任を持つという要請)を証言することができる
 >応答(口答え)に伴う傲慢、自己満足、過信
 4 礼儀正しさと責任の原則=どんな負債にせよ支払い終えたと信じてはならない
    =他者の言述を位置づけ、理解し、さらにはその言述の輪郭を定めることができるという自負
  >他者の前で応えることができるという傲慢;自分がすること言うこと書くことの全てを自分は知っていると(責任を持つことができると)思いこむこと
  >>そのような人物は、諸々の「テーマ」「テーゼ」「対象」「語り」「批評」「価値評価」をすべて無傷なままに保存しており、その前提や帰結もすべて知っているということになるだろう
・だが、教義や予断にあたう限り抵抗することを求める「脱構築」の思考が下す命令に応じて、非応答に服するならば、私はいっそう悪しき危険を冒すことになるだろう
 1 呼びかけに対する無関心。
 2 礼儀正しい沈黙はこの上なく辛辣で人を傷つける武器(皮肉)にもなりうる
   応える力も受け合う力もないという口実(卑下)は、責任の概念をむしばむことにならないだろうか?社会性の本質である責任という概念を、蝕むことにならないだろうか?
 3 一つの規則に応じて行為する(「義務に順応して」ふるまう)のであってはならないという原則に反する
 4 やれるだけのことはやったという努力を証言する応答の代わりに、際限のない言説(非応答に関するメタ言語的なパフォーマンス・思想の芸術化)を続けること。
    >>形だけの美しさを気取る遊び。メタ言語的な様態を採ることによって可能になる、全体を俯瞰しうるという自負



・では、何を為すべきか?
 >応答に関するアポリアは我々を身動きできなくさせる
  >>だが、こうした状況にもかかわらず、語ることを妨げられてはおらず、記述し続けることもできる
  >>こうした言葉は知に還元できない証言であると呼ばれるだろうか?
・われわれが分析者という名を与えた人は、もはや、儀式的習わしや予め規則の定まった展開を記述できない(粉砕、分断、崩壊の脅威)
 >ある人々によれば、それ(遮断--disruption--の脅威)は共同体の原理の崩壊という脅威である。だが、別の人々によれば、disruption(粉砕、分断)は社会的な絆一般を創設する源であり、共同体はそのことを糧として生命を保つ
 >分析者は自分が分析したいプロセスの利害関係者である
--
 ・第一の義務とは反復性を受け入れるということである。法への尊敬の念であれ、他者の尊重であれ。
 >ある一つの言語によってしか言えないような「秘密」を汚染する反復による同一性
 ・カント、純粋な法則、範例
 >カントによれば範例から道徳性を派生させることはできない。なぜならば、今現前している範例が道徳性の範型としてふさわしいかどうかをいかにして知るのかという問題が残るからである。したがって、範例に道徳性の諸原則(理性がア・プリオリに投影するイデー)が先立たねばならない。イエスは範例に過ぎず、ただ神のみが最高善である。
  >>範例は模倣(ミメシス)であり、モラルにおいては模倣のためのいかなる場もない。範例は勇気づけ、激励、奨励のために役立つだけである。
  〜カントによれば、道徳は経験から導き出されてはならないものである
  →だが、これら範例(諸形象)なしに済ませることは、有限な存在であればいかなるものであっても不可能であろう。ミメシス、反復による汚染なしに済ませることはできないだろう。
  >>カントが挙げるイエス・キリストの「範例」は、それ自体が範例的な仕方で範例の不十分さを告げている。さらに、神の不可視性、理性の主権を継げており、あらゆる有限な(感性的な)存在にとって、鼓舞や奨励、激励、教えなどが不可欠であることも変わらない。
 →範例とは目に見えないものの唯一の可視性であり、理性の外部に具体的に図示できるような立法者はいない。 ;言い換えれば、立法者の「形象」しかない。
--
・証言は、自らを言い表すことで、自分自身を確認することが可能なのかどうか?
 >秘密についての証言は、なんらかのパフォーマティブな経験と切り離すことのできるような中身を持っていない。
・密かなもの=秘密
 >秘密は秘儀のテクニックや熟練した腕前(伝達も伝授もできないもの)ではないし、心の奥深くに潜む構想力の隠されたシェーマの技法(カント『純粋理性批判』)でもないし、天才でもない
 >秘密は意識的な主体が隠し持っている観念ではなく、無意識的な表象の内容でもない
 >秘密はキルケゴールの言う絶対的主観性(一般的なもの--たとえば媒介的な倫理の審級--をないがしろにしうるような隠された内面)でもない
--
 ・カントは義務のために、最も道徳的な犠牲の背後に自惚れ(単に義務に順応しているということ)がないかどうかを臨検する必要を説く
 >「純粋な義務から発する」と「義務に順応して」との区別は、カントの目からすれば「精神」と「文字」、「道徳的な立法性」と「合法性」との区別に対応する
  >>だが、カントも認めるように(『実践理性批判 第三章』)、この区別が絶対に不可能であるとしたらどうか?
   〜義務から発することと義務に順応することとは完全に分離しきれない。
  ;ミメシスと非ミメシスは截然とは区別され得ない
  >>これらが区別不可能である理由は、経験論的なものではない。
 →仮にシミュラークル(模擬、擬態)の可能性、外的反復の可能性を廃棄すると、法そのもの、義務そのものの可能性(再帰性)が失われることになる。
   ;義務の純粋性には原理的に非純粋性が内属している。
 →そこにこそ、「秘密」がある
--
 >秘密は告白されることを前提とするような私的な内面性ではない
 >秘密は秘教的な共同体において伝授される奥義(ないし啓示・神秘)ではない(「知ある無知」ではない)
 >>なぜなら、秘密こそが奥義の伝授を可能にするのだから
 >>応えることを要求される審級(宗教、哲学、道徳、政治、法)においては、秘密は条件付きのものであり(秘密は分かちもたれており、所与の条件によって限界を与えられている)、ただの問題に過ぎなくなる。
  --哲学、科学、技術、宗教、道徳、政治、法律における知にとって「秘密」はない
 >秘密はいかなる意味においても隠されたものではない
 >>秘密は適合=一致としての真理にも、記憶としての真理にも属さない(秘密の非現象性)
 >秘密はどんな名のもとでも密かなままにとどまり、名そのものへと還元されないことこそが、それを秘密にしているのである。たとえ、「真実を創る」(アウグスティヌス『告白』)ときでさえも。
 >秘密は同形意義であり、同形意義の隠された資源(【おそらくハイデガーの語源的語呂合わせの思考を批判しているのであろう】)を意味するのではない、「同形意義の、あるいはミメシスの機能的な可能性である」。【*それは一つの国語においてのみ可能であるがゆえに、僥倖、好運である。ある文が複数の意味を持つということそれ自体、すなわち、一つの文が二つの事柄を意味しているということそれ自体は、ひとつの固有言語の中においてしか可能ではない。】
 >秘密について語ることはできても、秘密はちょうどコーラのように、密かなまま、動じないだろう。秘密は言葉に応えない=秘密は言葉に異邦なままである。
  >>秘密は物語や歴史に異質なままである
   〜秘密が自ら名乗り自ら語ったり応えたりすることはない(「この私、秘密は・・」と語ることはない)
  >>秘密に対して、ひとは釈明を求めることも約束を求めることもできない
 →秘密は議論の倫理において当然の義務として尊重されているはずである(議論がこのような秘密を尊重しないことは常にあり得ることではあるが)
  ;秘密なしに議論はない
【秘密は語る主体にはならない。それゆえ、異邦なのである。】

 --「そこにはもう時間はなく、場所もない」--

・文学的エクリチュールに対するデリダの嗜好
 >美的な資質や形式上の享受に還元されることのない、秘密。=パッション
  >>「残り」が残り以外の何ものでもない場所
・デリダによってその必要性を強調される、文学と古典的な詩(ないし文芸)との区別
 >文学とは近代になって創出されたものである
  ;その特徴は、「どんなことでも一切を言ってよい権利が原則として保証されている」という点にある。(非検閲としての、出版の自由、言論の自由)
  =文学なしに民主主義はないし、民主主義なしに文学はない
 >文学の可能性とは、「全ての問いを提起する権利、あらゆる独断論、教条主義を疑う権利、一切の予断、前提を、たとえそれらが倫理の前提、もしくは責任の政治学の前提であったとしても、分析する権利というような、無制限な権利と並んで進むものなのだ。」
・一切を言ってよい権利のパラドックス
 >一切を言ってよいという認可は、「絶対的な非応答への権利を承認する」
  >>この非応答は「できる=能力=権力」や義務の様態より原初的であり密かである
  >> 著者は、自分が書いた本の人物、語り手などに一切の責任(秘密を露わにすべきものとしての主体の位置)を持たない。=著作の中に書かれた「声々」は、人を来るままにし、来させるようにする【作品が自律する、ということの定義。あるいは、民主主義、魂。あるいはこの一節を、自由についての批判的考察として捉えることもできるだろう。(--そのことで一本の論文を書きたい気もする)】
 ・文学の秘密
 >秘密はわたしたちの心をとらえて離さない(passionner)
 →あるテクストの意味について、ある著者の最終的な意図や思考について、あらゆる仮説が無限に許されているとき。(作中の語り手、登場人物、文章等がその源泉(著者)から分離する)
 →テクストが自らを表示するその背後に、なにかしら秘密の意味を決定すべきではなく、決定すべき意味などないとき(=テクスト、痕跡)
 >>これらの条件(状況)にもかかわらず、秘密が私たちを他者に、「他なるもの」に結びつけておくとき
>「秘密は私たちの心をとらえて離さない」
--
 ・文学の始まり
 >私が何かについて語るとき、私が何かについて語っているのか、それとも一つの範例を与えているのか、決定することが不可能であるとき、文学は始まっている。
 〜たとえば「私」という語を用いて私小説を、あるいは「自伝的な」テクストを書くとしよう。そのとき、もし私がこれは自伝的なテクストではなく「自伝についてのテクスト(範例)」であると言ったり匂わせたりしたならば、誰も反駁し得ないだろう。自分は私について書くのではなく何らかの「私」や「私一般」について書くのだと断言したら、誰も反駁し得ないだろう。(>>このことは書くことのみに当てはまるのではなく、「痕跡」一般に当てはまる。身振り、指さし、動物の挙動にも当てはまる。)
  >>この二つの機能の差異はテーマ化される必要はなく、ときにテーマ化されてはならない。そしてそれが、「秘密」である。
 →文学による範例性の活用は、終わりのない解釈、際限のない享受を生む。
   >文学は常に自分が為すこと以上のものを言わんとし、教えようと、贈与しようとする ;自分自身とは他のものを言い、教え、与えようとする
 →一回的な何かとしての痕跡的なもの(恩寵的なもの)がある度に、そのとき証言があるのならば、それはどこであれ至る所に起こりうることとしての範例となる
 「私は常に私について語ることなしに私について語る」
・「私」がなんであるか、決して分からないだろう。「私」が、「この私」であるのか、「ある別の私」であるのか、「何らかの私」であるのか、「私一般」であるのか。
 >自分自身とは、そもそも別の他のものにほかならない。
【*たとえば次の文。「自分の子を里子に出す母親たちは、彼らを愛するが見返りを求めない」は、ある特定の母親たちをさしている(何かについて語る)のか、それとも母親とはそういうものである(母親一般について語る)と言っているのか、母親とはそういうものであるべきだと言っているのか、決定不能である。】
--
・「与えられた死」=生、実存、痕跡
 >死=秘密
 >>秘密は見えず、直観において与えられないものである
 >>秘密は、他者への関係によっても、共存在や社会的な絆によっても、運び去られることはない。たとえ秘密がそれらを可能にするのだとしても、「秘密は応えないものである」。
・「殉教なきパッションという絶対的孤独」
 >一つの証言の価値を、知や確信の価値と和解させることはできない。
 ;証言≠知・確信
 >>ごく日常的に生じている「秘密」(嘘をつくこと、欺くこと、誘惑すること、秘密を弄ぶこと)=シミュラークル(模擬、擬餌)
   〜ひとは秘密を問いただすこと(理性に従うよう説得すること=検閲すること)ができるし、秘密がないところに秘密があるかのように信じ込ませることもできる。
 >>だがこのようなシミュラークル(模擬)そのものが、シミュラークル自体を乗り越える可能性を証言しており、このような乗り越えは「残るもの」であり続ける。
 →シミュラークルは知でも確信でもないが、ある種の孤独へ向かうひとつの乗り越え可能性(書き換え可能性)として残り続けるものである。
・孤独(外部と遮断された場所への幽閉)は秘密の別名である
 >孤独は意識の孤独でも、主体の孤独でも、現存在の孤独でもない

デリダ『声と現象』
これで最後にします。 有賀 [2007/12/23,22:17:07]
前に投稿したものを削除したかったのですが、パソコンを変えたらパスワードが通じなくなっちゃいました。

なので、訂正と補遺として。
検索には引っかからない掲示板だけど。

この掲示板はもう死んでいるのでこれで最後にします。
ここでの話はいずれどこかで展開できればと思ってます。
以下、【*】内は有賀による書き込み。


〈現象学について〉
・その起源をカントにまで遡る現象学の伝統は、現れるがままの物事を尊重することにかかわってきた。
 >「現れるがまま」とは、思弁的、形而上学的前提なしに、物事を記述するということである
 >>フッサールにおいて「現れるがまま」とは、物事の現実ではなく、現れる限りにおいての物事の現実である。物事が私に現れる限りにおいて、私に対するそのような現れを記述するのである。【*「わたしにはそう見えた、あるいはそう見えてしまった。そう聞こえてしまった。もしくは、そう読めた、そう読めてしまった、ということ。主観を、それが受動的であることを根拠にして、つまり、受動的であるからにはそれが自然物理の一環を成すとして、いわば「客観的妥当性を放棄する限りで容認される普遍性」を確保すること。】
 〜現象学者は知覚される物事ではなく、物事についての知覚を記述する。
 〜現象学者は想像されるものではなく、物事についての想像作用を記述する。
 →「私」にとっての現象の記述
・「私は死んだ」という語句の不条理性
 >「私は死んだ」という不条理な語句の可能性(「私」を棚上げにできるという可能性)が、あらゆる言語活動の条件である
 〜死という主題が現象学的な目論見の限界を示している。死は現象学の中に場所を持たない。


○ 序論
・次の二つのことが問題である
 >1 現前性の構成における、過去把持から再-現前化への必然的移行
  【*フッサールによれば、「現在」は「過去把持--原印象--未来予持」として構成される。過去把持とは過ぎ去る現在をなおも「今」にひき留める「彗星の尾」であるが、こうした「彗星の尾」がいかにして過去(想起あるいは表象される過去)となるのかという問題がある。】
 >2 付帯現前化(共現前化)による他我との関係への、必然的移行(=イデア的客観性・対象性一般を可能にするものへの、純粋自我の移行)
  【*フッサールによれば、他者に関わる一切を捨象した「固有領域」において自我(超越論的主観性)による世界が構成され→「固有領域」に現れた他者を自己の身体との類似において「他なるもの」と認め→感情移入によって他者の体験を現前化し(付帯現前化)→私と他者によって「間主観的」に世界の同一性が構成される。すなわち、自分の腹痛と彼の腹痛が同じであることを了解するに至る過程が世界を構成する。・・ところで。たとえば下痢と便秘では痛み方が違う。これらは個別のものであり個別の経験であるが、自分の腹痛が下痢であること、あるいは食中毒であることを知ることが、「間主観的」な一致の可能性であると、フッサールが考えているわけではないらしい。というのも、「間主観的」な一致は概念によるのではなく感情移入によって与えられるのだから。解説の林好雄は、そもそも他の主観と区別されるべき原初の「超越論的主観性」が得られないという反論を、ハイデガーおよびメルロ・ポンティを引いて挙げている。】

・現象学は生の哲学である。意味一般の源泉が、生きるという作用として明確に規定されているがゆえに。経験的(内世界的)生をかっこに入れるフッサールが見出すのは、超越論的生であり、生き生きした現在の超越論性である。【*ここでデリダはフッサールによって「心を持たない意識」と呼ばれるものを、フッサールはそれに言及しているにもかかわらずなお「生き生きした意識」に分類してしまったとしてからかっているように思える。眠っている、あるいは気絶している者の「意識」は、それでもまだ「生き生きした意識」であろうか?】

・意識としての現前性の特権は、声の優越性によってのみ確立されうる
 >現象学全体に「拘束力」を確保してきた明証性

○ 第一章
・フッサールは一つの混同を告発することから始める
 >「記号」--「指標」/「表現」
  〜フッサールによれば何も表現しない記号というものがある。=指標【*「これ」、「それ」、「わたし」など】
  →このことから明らかなのは、フッサールにとって表現の表現性は、言述の可能性との断ちがたい絆を持っているということである。;表現は純粋に言語学的な記号であり、言述から指標を除ききることが困難であるにもかかわらず、フッサールは表現(=純粋論理性)の独占権を取っておく。
 >>指標には与えられず表現には与えられているもの「意味」とは、つねに誰かが、あるいはある言述が言おうとする=意味するもの、つまり言述の内容(イデア的意味内容)である。→論理的意味とは表現である【*「宵の明星」と「明けの明星」は(論理的・表現的)意味Bedeutungを異にする、というのがフッサールの言っていることである。フッサールは「宵の明星」/「明けの明星」を意味Bedeutungとし、「金星」を意味Sinnとして区別する。】

・フッサールがロゴスの可能性として捉え直したいと思っているのは、意味Bedeutungの表現的で論理的な純粋性である。意味が伝達的言述(会話など)の中に拘束されている限り、指標と表現はもつれあっている。だが、フッサールにとってこのもつれあいという事実の必然性は、指標と表現の本質的区別の可能性を損なうものではない。指標と表現の区別は権利上のもの(事実の価値や妥当性を問題とするもの)であるからだ。【*たとえば「人間は平等である」という言説は、事実上の問題(「人間とは平等なものである」という言明)として扱われる場合と、権利上の問題(「人間は平等であるべきだ」という言明)として扱われる場合とでは異なる議論を組織する。】
 >現象学の空間そのものを規定するこうした(事実上と権利上、実在性と志向性)隔たりは、言語の可能性によってのみ開かれる。

・かくして、あらゆる表現は、あたかもその意に反するかのごとくにして、指標的プロセスの中に拘束されているということになるだろう。
 >フッサールが異議を唱えるのは、表現が指標に含まれる(指標は表現の上位概念である)という考えである。フッサールの反論は、すべての表現には指標作用が混入しておりその逆は真ではないが、表現は指標作用の種ではないということを証明するものでなければならない。
 >会話における表現が、直観に対して永久に隠された内容すなわち他人の経験を指示するが故に、表現への指標の混入はつねに現実の会話の中で生じるのであるから、まさしく伝達内容を持たない言語の中で、「孤独な心的生活」において、表現の手つかずの純粋性を追究せねばならない。
 〜「表現は、表現がもはや指標として機能していない孤独な心的生活においても、その意味するBedeutung機能functionを発揮するのである。」(フッサール『イデーン』)

○ 第二章 指標の還元
・もし指標と表現が解きがたく結びついているならば、フッサールの企てのすべてが脅かされることになる--
 >指標的な記号とは何か
  >>自然のもの(火星の運河は知的生命体の存在を示している)であれ、人工のもの(焼き印、マーク)であれ、確信であれ推測であれ、つねに顕在的な認識を非顕在的な認識に結びつける
 〜Aの存在がBの存在についての確信ないし推定を引き起こす動機であるとき、AはBを指示していると言える。=A→B(ならば、〜だから);指標の本質【*フッサールにとって指標は「観念連合」に含まれる。経験的心理学の意味における連合は、イデア的客観性のためにカッコにくくられねばならない。問題は、(フッサールがもくろむような)経験的な主観の中立性--超越的な立場--は果たして確保できるのか、ということにある。 】
 >指標と証明の区別
  >このように規定された一般的な動機付けは、指標的示唆の意味をも、演繹的・明証的・必当然的の意味をも持ちうる。
   後者において、A→Bは、経験的な現在を超えて持続する。超経験的な一般性。
 〜明証的な証明において、A→Bという諸関係は、指標作用に属してはいない。
  >>指標的示唆=「事実の真理」、「〜があること」、「事実存在」【*〜というものだ】
  >>明証的証明=「理性の真理」、「〜であること」、「本質存在」【*〜であるべきだ、〜でなければならない】
  --フッサール現象学の謎のすべてを集約する「平行性」
【*グレゴリー・ベイトソンは論理的必然と因果関係の認識は異なるという指摘をしている。論理は無時間的だが因果関係は時間なしには矛盾に陥る。フッサールが指摘しているのも同様にこの区別である。指標的示唆は因果関係に当たり、明証的証明は論理的必然に当たる。だが、このとき、この区別を適用し得ないものが存在するのではないか?それがデリダの問いである。だが、ここでは記号が問題である以上、たとえば技術的生産過程などは議論に入ってこない。】
・フッサールによる指標と証明の区別に先立つ、指示すること一般とは何か?
 >客観的なイデア性と必然性を思念するときでさえ、意味作用一般の次元において、心的体験の全体が経験するのは指標的連関だけである。;指標はイデア的客観性に還元できない【*デリダによれば、指標とは指示機能(A→B)である。したがって、「客観的イデア性における純粋論理」といえど、A→Bを逃れてはいない。つまり、あらゆる記号は間隔化およびそれらの指示としての関係によって汚染されうる、ということである。言い換えれば、すべての文は生産であり、総合的判断であるということである。(ちなみに、のちに、デリダは自らの「痕跡」や「差延」を、その類似性を認めつつもカントのアプリオリな総合判断とは区別している。「痕跡」や「差延」は「判断」ではない、というのが彼の主張である。)】
 >「還元」は、事実/本質、超越論性/内世界性といった二つのタイプの記号の間の隔たりと同時に展開される
【機能としての指標、すなわち指し示しという機能そのものは、連合の原理である。音と映像を同期させるなら、そこに指し示しが機能する。

○ 第三章 独語としての意-味
・指標作用が除かれたと仮定したとき、後に残るのは「表現」である。では、意-味のある記号としての表現の定義とは何か?
 >「表現」とは「いまここ」(というアクチュアリティ・現在性)への「表出=外化」である
 〜「自己とともに」「自己のそばに」という二重の移行;「孤独な心的生活」
  >>フッサールによれば、まず対象性への関係が、意味を思念する「前-表現的な」志向性の刻印を残し、つづいて、この「意味」が、Bedeutung意-味と表現に変えられる。
   〜「非生産的な」重層化;表現の中で消え去る生産性
>『論理学研究』において、「表現」とは、自由意志に基づいた首尾一貫する意識的・志向的表出=外化である。記号に精神性の息吹を吹き込む主体=主観の志向作用なしに表現はない。 
 〜指標作用においては息吹を吹き込む(生気付け)には二つの限界がある
  1 記号の身体=物体は、息吹ではない
  2 指示されるものは世界の中の現実存在である
  >>他方、「表現」によって表現されるものは、世界の中に「実在しない」イデア性である。
>自由意志的な志向作用なしに表現が存在しないということは、フッサールによって次のようにも確証される。
 表現が「言おうとすることBedeutung」によって生気付けられ得る理由は、意味Bedeutungの了解が口頭の言述以外の場所では起こりえないからである。すなわち、意味(言おうとすること)は、意識的に語る者にのみ帰属する(語る者専用である)。
 〜フッサールによれば、発言の実際性、意味の身体的具現化(経験としての事実化)を構成するすべてのものは、表現の純粋な志向作用とは無関係である。;「言述が実際に発言されるかどうかということ、誰かに向けて伝達の意図を持って発されるかどうかということを、考慮に入れる必要はない。」(フッサール)
  >>志向性がたんに「意味」を意味したことはないにしても、表現という体験の次元においては、志向的意識と自由意志はフッサールにとって同義である。
 →超越論的現象学を統御する目的論は、超越論的主意主義にすぎない
 <このことによって、純粋な精神的志向の手を逃れるすべてのものが、「表現」Bedeutungから除外されることの説明がつく 
  ;物理的身体を人間的身体に変える精神性(息吹)によって働きかけられることのない限りにおいて、身振り・表情・身体もまた、「表現」から除外される(〜無意識に言述に伴うものの除外)
 →可視性や空間性は、「意志による自己への現前性」の死である。
 >フッサールによれば、(表情や身振りといった)無意識のうちに言述に伴うものたちは、「表現」とは異なり、自分の気持ちを表出する主体の意識において、現象的な統一性を持っていない。そこには「思想」【*=志操】がない。
 >>意味作用の次元においては、明確な意図(思想)とは、表現しようとする意図である。したがって暗黙の含意は言述の本質に属していない。それが何も意味しないのは、何も言おうとしないがゆえにである。
 →無意識的、前意識的言語の排除
 →これら「表現」から除外されるものたちは、それらを「解釈」することが可能であったとしても、明文化を可能にする言説の次元と非-表現の次元が区別される点において、フッサールの区別は妥当なものとなっている。(聞こえないものを聞こえるようにさせる);身振りが意味しうるのは、その身振りを聞き取り、解釈することができる限りにおいてである
 →解釈を拒絶するすべてのものは、厳密な意味で言語ではない。
 >>他人の身振りの中に言述性を復元する解釈者は、そうした指標的な表明について自分の考えを表現しているのである;他人との関係の中には、指標作用を還元不可能なものにするなにかがある
>言述の非物理的側面を考察するための、さらなる還元
 〜フッサールは、伝達/表明に属するすべてのものを指標作用の名の下に、「表現」から除外する
 >>あらゆる言述は、伝達作用の中に巻き込まれている限り、また体験を表明するものである限り、指標作用として作用している。
  >(フッサールは表現が「本来果たすことを求められている」機能は伝達作用であることを認めはするが、しかし、表現がこの根源的機能を果たしている限り、表現は純粋に表現それ自身となることはないと考える。伝達作用が中断されるときにのみ、純粋な表現が立ち現れる。)
 >>伝達作用が可能になるのは、聞き手が話し手の志向作用を理解する場合である。(精神的交流=アウラを可能にするためには、聞き手が話者を、意味を伝達しようとしている者として把握しなければならない。)
 〜言述のなかで、ある体験を他人に表明するすべてのものは物理的媒介を経なければならない。この還元不可能な媒介によって、あらゆる表現は指標的作業に巻き込まれる。「物理的側面」という観念自体が、指標作用(彼の主観的意識;言語に対する彼の精神・息吹が私に直接的に現前することはない)の運動に基づく。
  >>フッサールにとってもまた、他者との関係において根源的な現前は禁じられているのである。表明=告知の把握とは、表明=告知(する者)を知覚することである。十全な直観における存在の実際的な把握(存在の体験)と、直観ではあるが非十全的な表象に基づいた把握(存在の推測)との間には、大きな相違がある。後者において、真理は対応していない。【聞き手は内的知覚を共有することはできず、外的知覚を持つに過ぎないのだから、ここで知覚と言われていることは、ほとんど発話者への信であると言ってよい。表明=告知作用は、それが伝えるものを告知すると同時に覆い隠すのだから、内容への信ではあり得ない。たとえば、「はい」という言明は、単なる音声的形成物として見なされる限り、語のイデア的同一性を失う。つまり話者の態度によって、肯定の意味にも、否定の意味にもなりうる。ゆえに、フッサールは表現の純粋性(同一性、恒常的不変性)を確保する目的で、これら可感的事実を捨象するのである。】
 →現前性の概念がこの証明の要である。
  >あらゆる言述、意味される内容の直接的な現前を復元できないあらゆる言述は、非-表現的である。フッサールによれば、純粋な表現性は言述を生気づける魂(能動的志向作用)となって意味Bedeutungを出現させるだろう。したがって、未だ自然の中へ、空間の中へと出ていくことのないある現在の生のなかでのみ、表現は自己へと現前するのである。純粋な表現を取り戻すためには、指標作用(告知すると同時に覆い隠すという作用)を抹消し、他人への関係を中断しなければならない。
【*フッサールの目論見とは、他人の心を知るという問題の中に、自分の心を知ることの可能性および確実性(純粋な表現)という問題を見出し、解決に供せんとすることにある。つまり、「他人は欺せても、自分を欺すことはできない(自分に嘘はつけない)」という言明の普遍妥当性を証明することにある。それに対して、デリダは、自分を欺すことはできる、と答えているように見える。なるほど、自分に立てた誓いが破られてしまうことや、約束が守られないことはあり得るだろうし、「これはリンゴだ」という心のつぶやきは、自らが「これ」の未来永劫に渡る不変的恒常性を熟知していること、「リンゴ」の同一性を熟知していることを前提にしている。なるほど、リンゴでないものを「これはリンゴだ」として、自らを欺すことは不可能ではないだろうか?たとえ他者がリンゴをどのように定義しようとも、自分がリンゴでないものをリンゴであると信じているのだとしても、自らがリンゴだと思っていないものをリンゴであると信じることはできないのではないか?だからこそ、フッサールは純粋な表現のためには他者への関係を中断しなければならないと書いたのではないか?しかしそれならば、フッサールの純粋な表現においては、自らが信じていたリンゴが誤りであったことを知ることは不可能になるだろう。内的な生が、身体の物理的な因果関係における出来事の継起であるとしても、その自らの身体の状態を記述する場面において、記述するモノと記述されるモノという非対称性が残る。人は、自分の身体とさえ、完全な合一、完全な同時性を得ることはできない。自己の身体に対する倫理的関係。】
・こうした内的独白への還元において、言語による物理的な出来事性は欠如している。
 >内的独白において、語は、いかなる経験的出来事に対しても、何も負っていないイデア的同一性(反復可能性)である。
・ならば、私が私自身に語りかけるとき、私は私自身に何も伝達しない(表明=告知の中断)ということになるのだろうか?
 >指標を必要とするとは、要するに、記号を必要とする、ということである。だが、フッサールにとって「表現」とは、記号という概念を免れるものなのである。
 >孤独な心的生活においては指標作用が機能しないことを示すために、フッサールは二種類の「参照指示」を区別する。
 >>表示作用(表現的指示作用)と指標作用の区別
 --表示作用はどんな現実存在もなしですます/指標作用においては、その現実存在が推定されるような内容への参照を指示し、確信ないし予測の動機となっている
 >「孤独な心的性格」の中で、我々は実在的な語を使わず、表象された語のみを用いる。体験は指し示される(告知し覆い隠す)ことなく、直接的に確実なものとして現前する。
  >>表現においては、実在しない記号が、イデア的でしたがって実在しないような意味されるもの(シニフィエ)を表示するのである。;直観に対する現前
・内的独白における語は「想像表象」である
 >語の「像(イマージュ)」は、(想像された)語ではない;主観的体験を、絶対的確実性と絶対的現実存在の領域として分離する
  〜語の想像表象=語の音響的イマージュ(フォルム)
  >>フッサールによれば、想像されたケンタウロスと想像の中のケンタウロスの表象は異なる
  >>ソシュールもまた、実在的な語とその像(イマージュ)を区別する
  〜ソシュールによれば、意味するもの(シニフィアン)の表現的な価値は音響的像という形相(フォルム)にだけ認められる

○第四章 Bedeutungとリプレゼンテーション
・フッサールの論証における要点は、
 --表現と意味の純粋な機能は指示(指し示すこと)ではない
 --そのことは、「孤独な心的生活」において証明される;主体は自分自身について何も指示しない(何も隠れていない)
 >フッサールはこの論証を主張するために二つのタイプの論拠に訴える
  >>こうした断言は、言語における表象=代理(リプレゼンテーション)の地位規定にかかわっている。
 1 内的な言述において、私は私に何も伝達しない。たとえ私が私に何かを伝達することを想像することはできるにしても。
 2 内的な言述において、自己から自己への伝達作用が起こりえないのは、それが必要でもなければどんな目的も持たないからである。なぜなら、心的な諸作用の現実存在は媒介なしに現前するのだから。
 【たとえば、「あ〜悪いことしちゃったなあ・・」などと心の中で反省の言葉をつぶやくとき、それをつぶやいている本人にとって、何が悪いことなのかとか、何のことを言っているのか(指しているのか)といった問いは無意味である。あるいは夢の中の人物や出来事は、記述を待たずにその属性が直感される。フッサールが「媒介なし」と言っているのはそういうことだ。=「現在」の分割不可能性。】
〜1の論拠について
 >独白の中で、人は伝達する主体として自分自身を思い描く(表象する)。フッサールに従えば、実際の伝達作用と表象された伝達作用の間には本質的な差異がある。
 >>こうした区別を、言語に対して適用することは原理的に不可能である。(言語においては、表象=代理と実在を厳密に区別することはできないし、言語とは一般にそういうことなのである。)
  〜私が語を実際に使うとき、そこに伝達の目的があろうとなかろうと、表象=代理的な反復構造にとらえられている。;記号は決して出来事ではない
  〜シニフィアンの表現的価値(フォルム)もまた、ある種の形式的同一性によって反復されうるのでなければ記号として、言語として機能し得ない。
  →記号一般の根源的な反復構造のために、実際の言語が想像的な言述と同じくらい想像的なものである可能性、および、想像的な言述が実際の言述と同じくらい実際的なものである可能性は大いにある。;記号において、実在と代理の、本物と想像的なものの区別は消失している
 【*記号(写真でもよい)において、それが演じられたもの(再演、再現)であるのかそうでないのかの区別は不可能であるということだ。(再演であれ再現であれ、「それ」が存在したことには間違いがないという理由から写真に映ったものの実在を証明できるという主張は、ゆえに、そもそも問題を理解できていない。)ホロコーストの写真はいくらでも見つかるし、。】
 >本物と想像的なものとを区別しようとする作業とは、そのまま、記号(告知し覆い隠すこと)の消去そのものである
・イデア性とは同じものの恒常性であり、反復の可能性である。フッサールによれば、歴史的発展はつねにイデア性の構成を本質的形式とするのであり、反復と伝統はすなわち根源の伝播と活性化である。
 >こうしたイデア性としての存在規定は、現前性としての存在規定と一体になっている。
 >直観への根源的現前性の価値とは、あらゆる生の普遍的形式がつねに「現在」である、という確信にある。現在の現前性に関わるとは、私がそれによって経験的現実存在を踏み越えるような運動を意味する。
 →現前性が超越論的生の普遍的形式であるならば、私が不在の時(私が生まれる以前、私が死んで以降)に、現在が存在するという知(認識)を受け入れることになる。
 >ここで隠されているものは、私が消滅するということへの関係である。形而上学における記号の消去は、この「私が消滅すること」への関係を隠蔽する。
〜2の論拠について
 >自己を表象することなしに想像しうる言述というものはない。言述は自己のリプレゼンテーションそのものである。
 >孤独な心的生活における内的伝達作用の「無目的性」とは、現前性の同一性における非-他性、非-差異である。「現在」の分割不可能性

○第五章 記号と瞬き
・「現在」(先端)の分割不可能性、同じ瞬間に自己へと現前する体験の同一性が、フッサールによる論証の全責任を負っている。
  ;根源的直観=記号の不在と無用性という経験
 >フッサールによれば、時間の経験は、アクチュアルな「今」という点を、過去把持という「彗星の尾に対する」核としての「今の統握」を持つ。
  >>顕在的な今はいつまでも持続する一つの形相である・質料は常に新しいものである
 ~フロイトの全テクストが前提としている時間性の構造(事後性;経験が後日組み替えられる可能性)を、フッサールは拒絶する
  >>フッサールによれば、事後に意識となるような無意識的な内容について語ることは不条理である。なぜならば、意識とならないような「無意識」を過去把持の内容とすることは不可能だからである。
 →『イデーン』における点としての今というこうしたモチーフにもかかわらず、『講義』その他において、記述の内容は現在の自己同一性について語ることを禁じており、そのことが、『論理学研究』における「同じ瞬間に」の論拠を崩壊させる。
・『講義』全体において証明されているところの、「表象=代理」を現前する知覚へと還元することの不可能性は、だが、顕在的に知覚された「今」にとって必要不可欠なものとしての非-知覚(非-現前性・想記や予期)と連続的な折り合いをつけるという条件に支えられている。
 >フッサールによれば、根本的な断絶は過去把持と再生の間、知覚と想像作用の間にあるのであって、知覚と過去把持の間にあるのではない。
 >だが、同じ箇所において、フッサールは「知覚と過去把持」の断絶を問題にしている 〜知覚を時間において、その与えられ方の差異について考えるならば、知覚の対立物は想起と予期であり、知覚と非-知覚が互いの中に連続的に移行しあっている。 
 >>今と非-今の、知覚と非-知覚の間のこうした連続性を認めるならば、瞬間の自己同一性の中に他者(非-現前性、非-明証性)を導き入れることになる。
 →瞬間におけるこの「他性」は、現前性一般の条件である
  >>間隔化、差延 ;指標作用一般というズレ=隔たり、意味作用(記号作用)一般というズレ=隔たり

○ 第六章 沈黙を守る声
・現象学的な「沈黙」は、二重の除外と還元によってのみ再構成される。
 >1 指標的な伝達作用における他者への関係の除外
  2 意味の層の後にくる表現の除外
 >>1 表現と指標作用を区別する判断基準は、「内的な生」である。「内的な生」においては他我が存在せず伝達作用が存在しないのだから、指標作用は存在しない。ゆえに、「おまえはひどい振る舞いをした」という内的言語に登場する第二人称(=おまえ)は、フィクションであり、フェイント(ふり)である。
 〜このフッサールによる実例の選択が明らかにするフッサールの企図とは何か
  >1 フッサールがなんとしても避けたいと思っているのは、内的な言述が述語の付与による価値判断を発生させることである。(「おまえはそういう人間だ」)
 →価値論を論理=理論的な核へと還元すること(フッサールの主張)
  >2  フッサールによって選ばれた実例は、同時に二つのことを証明しなければならない。 a この命題が指標的ではないということ b この命題は主体自身に何も伝達しないということ
・現象学的「声」の優越性は、表現された「意味」が、直接的無媒介的に表現作用に現前することに起因する。そしてこの現前性は、意味するものの現象学的「身体=物質」が、それが生み出されると同時に姿を消すように見えることに起因している。
 >なぜ音素が、諸記号のうちでもっともイデア的であるのか?
  >>指と目による運動(記号作用)は、不在なのではなく、内面化されている
・形而上学の伝統的な音声ロゴス中心主義
 =エクリチュールは、すでに準備が整ったパロールを書き留め、具現化するために、あとからやってくる

○根源の代補
・代補=差延;現前性に亀裂を入れる
 >代補的な差異は、現前性自身に現前性が根源的に欠如している中で、現前性を代行する
 >>代理的補充、「〜の代わりに」という構造を持つ
 >代補性の構造
  >>シニフィアンはシニフィエのみをリプレゼンテーションするのではなく、別のシニフィアンの代わりもする。(指標は、不在のものを補充する単なる代理物ではない)

 --フッサールによれば、「表現」は、表現に意味を与え直観的充実を与える諸作用の中で、対象性への関係を構成する。言い換えれば、「表現」は何ものかを思念するかぎりにおいて、対象的な何ものかに関係する。
 >エクリチュール ;主体の不在(死)にもかかわらず、主体の死を超えて(によって)機能するような記号
  >>「わたしは今窓からこれこれの人を見ている」という文は、直感なしに、「イマココ」なしに、可能である。意味作用一般の構造によって、主体および対象の不在は必要とされている。
 〜したがって、直観と志向作用が溶け合うような現前性の充実(フッサール)は、--もしそれがあるとするならば--言語に固有の構造を消去ないし溶解させることになるだろう。
・「私」は、偶有的な表現である。たとえば、もし、この「私」という語を、客観的な概念的内包(=語りながら、自分自身を指し示す人物)に置き換えるなら、「私はうれしい」という文は、「語りながら自分自身を指し示す人物はうれしい」となる。つまり、「私」という人称代名詞は、特殊としてしか機能し得ない。言い換えれば、「私」という語を使う限り、本質的に偶然的で主観的な指標的機能から逃れることはできない。
 >>(偶然的な表現の定義は、言説の中で言表の意味を歪曲することなしに恒常的で客観的な概念的表象=代理と取り換えることができないということにある。)
 >「孤独な言説(独り言)においては、私の意味は、本質的に我々自身の人格の直接的な表象の中で実現される」(フッサール);意味の、語る者にとっての、対象への関係としての、実現--私・今・ここ
 >>だが、それは本当だろうか?
  >「独り言」における「私」の語は、〈私-今-ここ〉一般に対して同じものであり続ける、すなわち私の経験的な現前性が消え去ったとしても、その意味を保持するものとして与えられる。:「私」という語が機能するときの(理解、聴取される際の)、経験的「私」(言説の対象)の不在
  〜充実せる直観(=「私」)は、表現の「本質的な構成要素」ではない
  >>〈私〉という語を理解するために、私は〈私〉という対象の直観を必要としない
   〜非-直観の可能性が、意味を構成する
 >意味のイデア性は構造的に遺言的な価値を持つ(言表の主体が不在である--与えられていない--にもかかわらず言説が理解可能であること)
  >>「知覚が知覚の言表に伴っていようといまいと、〈自己への現前性〉としての生が〈私〉という言表に伴っていようといまいと、そのことは意味の機能にとって全くどうでもよいことである。」
・純粋論理文法という同じ前提に立ちながら、なぜフッサールはこうした結論を導き出すことを拒むのか?
 >充実した「現前性」のモチーフがあるからであり、フッサールにおいては、「象徴=記号(シンボル)」が、つねに「真理」に向かって合図し、真理の欠如として構成されているからである。
 >>フッサールにおける「現前性」のモチーフ;真の意味とは、真の意味を言おうとするということである〜知の中に言語を取り戻す
 >フッサールにおいて、意味は、対象への関係という認識的志向性の中でしか開始されない;形式とは志向性の空虚であり、志向性の純粋志向作用である
 >>意味作用(記号作用)の純粋な諸形式は、一見、十全な現前性・直観とは無関係に見えるが、「空虚な」、抹消された意味として、つねに対象への関係という認識論的基準によって規制されている。
 〜だが、「円は四角である」といった命題が意味を持つのは、ある他なる内容が、このSはPであるという形式のなかに滑り込んだときには、われわれに対象を認識させることが可能であるという、ただそれだけの理由からである。
  >>「円は四角である」という文は、どんな対象も持つことはないにせよ、しかし、非文法の事例(対象への関係の可能性)として有意味である。
  →こうした意味一般の規定なしには、あらゆる詩的言語を絶対的な無意味として捨てねばならなくなるだろう;非言説的な意味作用の諸形式(芸術一般--文学を除く--)の中には、どんな対象に向けても合図することのない意味の資源が内蔵されている。
・主語と述語に分離することのできない概念である〈生き生きした--現在〉すなわち現前性:反復のために使われる対象が目の前に存在すること、時間的な現在が保持されること
 >超越論的な生のイデア的同一性(現前性)が、イデア的な無限の反復を可能にする
  >>現前性は、形而上学としての現象学を創設する概念である
 〜『論理学研究』の冒頭からすでに、この「現前性」は、それが同時にイデア的(理想)である以上は、現実的ないし実際的には、無限に差延される。;なんらかの主観的経験を一義的で客観的に確定された仕方で記述しようとするすべての試みは徒労である(フッサール)
  >>ゆえに、「本質的区別」の体系全体は、そのイデア的価値において、純粋に目的論的な構造をとる。記号と非-記号、表現と指標作用などなどの純然たる区別を行う可能性は無限に差延される
 →無限の差延(決して客観的に確定されることのない)としての〈生き生きした--現在の生〉とは何だろうか?(〈生き生きした--現在〉=カントの〈理念〉)
  <<ヘーゲルによるカントの〈理念〉批判;差延の無際限性が無際限なものとして立ち現れるためには、肯定的無限が自ら肯定的無限自身を思考するのでなければ不可能である
  >>無限の差延は、私の死との関係においてしか生じない。したがって、無限の差延の立ち現れは、それじたい有限である。
  〜この意味で、現前性の形而上学の内部においては、歴史の閉鎖としての絶対知を我々は信じている。;現前性の歴史は閉じている
 >なぜなら、「歴史」とは、存在の現前化であり、知と支配の技法として、存在者を現前性の中に産出し、収集することであるから。


コーラ
2 有賀 [2007/01/12,19:26:54]
あけましておめでとうございます

南川君が個展やってますね。「ぴあ」で発見しました。
DM来なかったのは残念だ。

人のことはともかく、今年は点を取りに行く。ガンバル。
みなさん、暖かく見守るように。おねがいします。
装幀の仕事はボチボチです。仕事は筑摩書房のサイトで見れます。
「ブルバキ数学史」とか、「くもの巣の小道」とか、「現象学と解釈学」とか、
「角の三等分」とか、他にヘンな本がいろいろ・・
年収は郵便局の時より減ってます。150万以下です。桑沢と併せて。
みんな僕に金銭の負担を要求しないように。
それはともかく、今年は文章を書く。絵も描く。あと、ホントは漫画とか書きたい。
ホームページも作るつもりだったのに、絵ができないから、もお。

さて、んで、岡崎さんが話題にしている「コーラ」について、この掲示板での話の流れから読んでおこうという次第でノートにしてみましたが、
ああ、ムズカシイ。特に後半、最後の最後での追い込みの部分、むずかしいです。

●『コーラ』
 >>ジャン・ピエール・ヴェルナンへのオマージュ
 >>*プラトン『ティマイオス』から、関連箇所を抜粋引用。
     →「さてそれでは本論に帰って、万有についての今度の出発点は、前のよりももっと分類の規模を広げたものにしましょう。すなわち、あの時は、われわれはただ二種のものだけを区別したのですが、いまはそのほかに第三の種族を明らかにしなければならないのです。というのは、前の話題では、あの二つのもの--つまり、一つはモデルとして仮定されたもの・理性の対象となるもの・つねに同一を保つものであり、第二は、モデルの模写に当たるところのもの・生成するもの・可視的なものだったのですが--この二つだけで十分間に合っていました。・・しかし今は、議論の方がわれわれに、とらえどころのない厄介な種類のものを、言論によって明るみに出すようにつとめろと迫っているらしく思われます。・・いったいどのようなものを、火よりもむしろほんとうには水だと言わなければならないのか、また、どのようなものを、何にせよある一定のもの--つまりそれを(同時に)全部のものとして言うのでもなく、順番に個々それぞれのものとして言うのでもなく、それよりもむしろある一定のもの--だと言えば、何らかの信用のおける確実な言葉を使ったことになるのか、これは厄介な問題なのです。・・まず第一に、われわれがいま「水」と名付けているものも、--とにかくわれわれの思っているところでは--凝固すれば石や土になり、融解したり分解したりすると、この同じものが今度は風や空気になり、空気が燃え上がると火になる、といったことが見られ、また逆に、火が凝集して消えて再び空気の形へと帰って行くのが見られ、空気がもう一度集まって濃密になると雲や霧になり、後者がなおもっと圧縮されると、そこから流れる水が生じ、水から再び土や石が生じて、こうして--とにかく外見では--それらが互いに回り回って生成を与え合っているのが見られます。
 *コーラは、目に見えず、形もなく、何でも受け容れるもの、である。「そのものの(*コーラの)火化された部分が、いつでも火として現れ、液化された部分が水として現れ、土、空気の場合も、例のそのものが、そうした土や空気の模造を受け容れる限りにおいて、それぞれとして現れるのである。」

・コーラはその名として訪れ、名以上のものの侵入を告知する。
・コーラは感性的でも叡智的でもない、第三のジャンルに属している。
 >イエスかノーかの二値論理(無矛盾性の論理)とは対称的な、別の論理
  >排除の論理と分与(分有)の論理における二者択一性は、名付けることへの不適当さに由来する。
  >>コーラは「あれでもなくこれでもない」とすら言うことができず、「同時にこれでありかつそれである」とも言うことはできない。=あれもこれも名指してはいないということ、あるいはあれとこれとを語っているということを想起させるだけでは充分ではない。

・呈示され現前しているかぎりでのコーラについての言説は、自然なロゴス(正当なロゴス)から生じてはおらず、雑種交配的で私生児的、それどころか退廃してさえいるような推論から生じている。それはあたかも夢を見るかのように告げられる(52b)
 *該当箇所から引用する。
 〈そこで、事情が以上のようだとすると、次のことに同意しなければなりません。すなわち、まず一つには、同一を保っている形相というものがあるのですが、これは、生じることも滅びることもなく、自分自身の中へよそから他のものを受け入れることもなければ、自分の方がどこか他のもののなかへ入っていくこともなく、見えもしなければ、その他一般に感覚されることもないものなのでして、じっさいこれは、理性の働きがその考察の対象として担当しているところのものなのです。そして、以上のものと同じ名で呼ばれ、また以上のものに似ているものが、二つ目です。これは、感覚され、生みだされ、いつでも動いており、ある場所に生じては、再びそこから滅び去っていくものなのでして、思惑によって、感覚の助けを借りて捉えられるものなのです。そして、更にまた三つ目に、いつも存在している「場」の種族があります。これは滅亡を受け入れることなく、およそ生成する限りの全てものにその座を提供し、しかし自分自身は、一種のまがいの推理とでもいうようなものによって、感覚には頼らずに捉えられるものなのでして、ほとんど所信の対象にもならないものなのです。そして、この最後のものこそ、我々がこれに注目する時、われわれをして、「およそあるものはすべて、どこか一定の場所に、一定の空間を占めてあるのでなければならない、地にもなければ、天のどこかにもないようなものは所詮何もないのでなければならない」などと、寝とぼけて主張させる、まさに当のものにほかなりません。じっさい、われわれはこうした夢見心地の状態にわざわいされるために、寝とぼけていては把握できないような、真に存在しているものについても、眼を醒まして、いま挙げたような区別のすべてや、その他これに類した区別を立てて、真実を語ることができなくなるのです。〉『ティマイオス』種山恭子訳
 >ロゴスでもなく、ミュトス(神話)でもないが、このロゴス/ミュトスという対立に場を与えつつ、自らはその法に従わないもの(場=コーラ)の、必然性を、いかにして思考するか?


・これは二つの極の間の揺れ動きではなく、二種類の揺れ動きの間の揺れ動きである;二重の排除と分与・・「あれでもなく/これでもない」と「同時にであり、これかつそれである」との間の揺れ動き
 >コーラとは、存在の二つのジャンル(つねに同一を保ち理性によって捉えられる:完全・真実/つねに生成状態にあり感覚によって捉えられる:不完全・所信=ありそうなもの)に対する第三のジャンルである
・コーラという語の翻訳は、解釈の網目に捉えられたままであり、我々の誰一人としてそれを免れてはいないような、遡行的に見出された目的論的投影である。(場、場所、領域、用地、地方、母、乳母、受容体、刻印台・・・)
 >我々が証明したいと思っていることは、転義とアナクロニスムを不可避的なものとしつつ、なお、それらを偶発事や弱点、かりそめの瞬間などとは別のものにするような構造である。
・『ティマイオス』に捧げられた豊かで汲み尽くし得ない膨大な文献、諸解釈は、コーラの意味作用と価値を知らせに(コーラを限定しつつ、形を与えるために)やってくるが、コーラはそれによって汲み尽くされるがままにはならない。諸解釈がコーラに形を与えるのではなく、コーラがそれら諸解釈を受け取り、それらに場を与えるのである。
 >われわれは、「コーラ」によってはじめて、「受け取ること」ということが何をいわんとしているのかを学び始めることになるだろう。
・コーラは一見固有名詞のようでありつつも、その指向対象は実在しない。
 >>コーラ=X は、何一つ固有のものを持たず、不定型なままにとどまるという固有性しか具えていない。特異な非固有性。コーラはそれら諸解釈を受け取るが、何一つ固有性として所有することはない 
 【*どんな解釈もその固有性として所有しないということ。言い換えれば、どれほど言葉を尽くしたあるいは機知に富んだ批評や解釈であろうとも、それらがただこの「コーラ」のためだけに、「コーラ」の専有物となるためだけにあるということはない、ということ。】
  〜コーラとは、コーラの上に、その主体にじかに、自らを書き込みにやってくるものの総体ないしプロセスである。だが、それら(自らを書き込みやってくる諸解釈)すべての主題ないし現前する支持体ではない。
   --支持体の不在≠不在の支持体、支持体としての不在
    →弁証法による臨検を引き起こしつつ、これに抵抗する
 【*「支持体」を、どのようなものと考えるべきか?たとえば指向対象としての起源として?(あるいはまた、「楽譜」のようなものとして?)】
・これらは、果たして、形式化しうる「論理」であるのかどうか?
・コーラの思考は「哲学者の無ー矛盾の論理」には明らかに帰属しないが、だからといって、「神話的思考」の空間に帰属するものであろうか?
 ・ヘーゲルへの迂回
  >いかにして思弁的弁証法は神話的思考を目的論的パースペクティブの中に書き込むのか
   >>哲学がマジメなものになるのは、哲学が論理への確実な道に踏み込む瞬間から発したときのみである(ヘーゲル)=自らの神話的形式の放棄・止揚
    〜神話および神話素は、弁証法的に止揚されるために差し出された前-哲学素にすぎないという目的論→哲学的思考の価値は、その内容の非神話的な性質(真面目さという価値)によって測られる
 >ヘーゲルにおける逡巡:二つの解釈
 >>1 哲学としてのテクストにおいて、神話の機能は哲学的不能性の徴、それ自体としての概念に自らを繋ぎ止めることの不能性の徴である
 >>2 神話は、哲学素をあますところなく所有しているマジメな哲学者(=プラトン)による教育上の支配力として機能する(哲学をファンタジーとして語る術)
 〜この矛盾は外見上のものに過ぎず、両者は次の点で共通している
  ;言説の〈形式〉としての神話が、記号表現された概念の〈内容〉に、哲学的なものでしかあり得ない意味というものに、従属している(形式上の呈示作用がなんであれ、つねに概念および哲学的テーマこそが言説を支配する) 
 >>「神話の内容は思考である」。そして、プラトンの語る神話的プレゼンテーションがいかに見事であったとしても、「表現の抽象的な様態」よりも優れているなどと考えるのは誤りである。(ヘーゲル)ゆえに、ヘーゲルによれば、神話的プレゼンテーションとは、思考の純粋な様態において自らを表現することの不能を示しているに過ぎない。
 →コーラが哲学素でもなく、神話的タイプの架空の物語の対象でも形式でもないとすれば、コーラはヘーゲルの図式のどこにも位置づけられない
・コーラ=亀裂 ;感性的なものと叡智的なものの間、神体と魂の間の深淵
 >深淵化=入れ子化 という言説の秩序 → ≒全てがその内部において同時に場所を占めかつ自らを省察=反射しにやってくるという、思考ないし語ることの様態
  >>「深淵化=入れ子化」は、言説の諸類型ないし諸形式を割り当てられた場所(地位、地域、領土、国家)の政治の全体に影響を及ぼす
【*簡単に考えることから始めよう。ここでコーラと呼ばれているものがなんなのかという例を挙げてみよう。例えばコーラとは、坂口安吾が言うような「日本」である。それは現にそこで人々が生活しているというだけの「日本」であって、歴史や、法や、共有された記憶や神話などによって成立する「日本」ではない。】


・底なき重ね写しの構造;コーラについての言説の深淵化=入れ子化
 >場の政治
 >場とは一体何か?
 > コーラの条件(都市国家の環境) ;何も固有のものとして持つことはなく、「自分たちの守っている人々から、その警護の報酬を受け取る」(=都市国家の警護者)
 >生まれてくる子どもたちを、誰それの固有の親族であると認識したり識別したりできなくするような措置 
 >>生みの母という固有性も、父の似姿としての固有性も、子どもたちの固有性もない
 >結婚に関する戦略的振る舞い:「篩」(『国家』プラトン)
 >コーラこそは、自らを刻印するありとあらゆるものの記入の場を象る
 >固有なるものの法に替えて、「篩」「クジ引き」;最良のものと偶然性の交叉

・コーラが一つの受容体だとしても、コーラそれ自体はいかなる〈語り〉の対象にもならない。その主体にとってついに計り知れないままにとどまる一つの秘密なき秘密
・コーラは延長するものの延長を準備するのではなく、すでに占有され住まわれた場、順位、地位、領土である
 >ソクラテスは誰かあるいは何者かではないがゆえに、ソクラテスはコーラではない。
【*ここでデリダが語っている「ソクラテス」とは、いわば引用文を次々と受け入れ、受け取り続ける場にあって、それらの引受人であるところの蝶番の文の謂である。「(話の)ご馳走にあずかるためにおめかしをし、それをいただこうと誰よりも意気込んでいる」ソクラテス。】


・際限ない省察を生む「深淵化=入れ子化」から不意に到来する目眩:カオス、亀裂、コーラ
・マルクスの「エジプト・モデル」の検討;コーラの謎に接近するための秘訣
 >1 子供のために書く
  >>子供
  =文盲と無教養、書き記された伝統を持たない者、記憶喪失者、語り継ぐことのできない者、神話を必要とする者;ギリシア人)
   〜ギリシアの歴史はエジプト人によって書かれ、保存されてきた
  →一つの都市国家の記憶が、もう一つの都市国家の書記に託される
  →「記憶を救うこと」という問題
  :生きた記憶は、もう一つの都市国家・政治空間へと、もう一つの場の筆記された遺跡の中へと追放されねばならない
【*この件は、ちょっと、映画『エターナル・サンシャイン』を想わせる。生きた記憶、記憶に値するものを救う手段としての、他者による書き取り。】
  >一つの民衆の記憶(ギリシア人の歴史)が臨検され、別の民衆(エジプト人)に よって再自己固有化される・・=植民地化の歴史
  >同時に、(エジプト人が賞賛し依存する主人としての)ギリシア人たちは、エジプト人の書記に依存している
 →主人と奴隷の弁証法
 >2 幼年期を受け取り、恒久化する
 >> 幼年期の記憶=幼年期の記憶は、「蝋の上に、消すことのできない文字で描かれているかのような」「驚くべき仕方で残っている」
  --処女なる(まっさらな)空間(コーラ)に書き込まれた起源の印象=圧痕
 〜コーラの規定;語りの受容体ないし収容の場
 →コーラが一つの受容体だとしても、コーラそれ自体はいかなる〈語り〉の対象にもならない。その主体にとってついに計り知れないままにとどまる一つの秘密なき秘密

・「プラトニスム」について、プラトンの哲学について語ることを禁ずるべきなのではなく、「プラトニスム」という語が意味するところは、つねに、それが策略や誤認や抽象化によって人々がプラトンから抽出してきたテーマないしテーゼに過ぎない、ということである。
 >抽象化の過剰が、テクストの狡知、重層決定、留保を覆い隠す。
 【*抽象の過剰を避けるには、テクストの狡知、重層決定、留保に注意を払う必要がある。】
 >>にもかかわらず、「プラトニスム」(ないしプラトンについての哲学)が、プラトンの哲学と呼ばれうることの正当性がある理由は、そもそものプラトン哲学において、抽象化の暴力が、他の思考のモティーフ(別の歴史的状況)を支配し、法を成すことにあるからである。
 〜「プラトニスム」のこのような効果は、常にテクストを裏切る。;暴力的な逆転
・この「暴力的な逆転」こそが、分析されうるのでなければならない。
 >新たな状況、経験、関係が可能でなければならない
 >かりそめに定立された「プラトニスム」によって抑制された諸力が、様々なテーゼの組織の中に混乱や潜在的一貫性のなさや不均質性を保ち続ける。
  >>「プラトニスム」とは哲学の全歴史の全てを統御しているが、この「全て」は、葛藤を孕み、不均質であり、相対的に安定することが可能であるような様々なヘゲモニ(覇権)ーに場を与えるだけである。(様々なテーゼの組織の中にある、寄生、秘匿、腹話術、否認のトーン)
 >覇権の効果として、ある一つの哲学はつねに「プラトン主義」である。
  >>プラトンにおけるパワーポリティクスを思考することの必然性
  
・「語りの現在」はどこにあるか?=誰が語るのか?誰に語るのか?
 >全ての語りはソクラテスに向けられているが、しかし、実際に語っているのは、「語りの中の話者の中の語りの中の話者・・・」といった遠ざかる報告の連鎖における語り手である
 >トコロデ、「アテナイ」(子供としてのギリシア人たちの都市国家)は、エジプト人の書記によってパラダイム(範例)となっていた。したがって、「アテナイ」の人々は語りの宛先であると同時に起源でもあることになる。
 〜単なる物語ではなく、実際に現実のものであったこの偉業「範例としてのアテナイ」への移行、「現実主義」への転向(書記によって自分自身よりも古い一つの起源へと差し向けられるセオリー)
  >>哲学と政治(=一つの知の同一性、同定可能かつ伝達可能な意味内容)と、神話の形式(起源が不確かで、絶えず先送りされる責任=応答可能性に委ねられており、固定的で限定可能であるような主体を持たない「言われたこと」の形式をとるテクスト的漂流
  >報告から報告へと作者が遠ざかってゆくに連れ、神話的な「言われたこと」は、正当=合法的な父を持たない言説(孤児=私生児)に似る→責任ある父(全てについて応答することのできる作者)を持つべき哲学的ロゴスからは区別される
 >一方でコーラは「受容体であり全ての誕生の乳母のごときもの」である。乳母たるコーラは第三の何かに属しており、コーラの論理がそこに帰属させられる全てのものを制御する49a
 >他方でコーラは「受容器を母に、パラディグマ(模範)を父に」喩えるならば、両者の中間的本性であるような「子供」に喩えられる50d
  〜これに従うなら、第三のジャンルであるようなコーラは対立措定を形成するカップルには属さない=コーラ(第三のジャンル)は一つのジャンルではなく、一つの個物である。コーラは自らとカップルを成すように見えるもの全てに対して、非対称的な関係を保持する間隔化をしるしづける→産み出すことなく場を与える奇妙な母(=コーラ)
 >コーラ;空隙の関係、間隔化
・存在の二つの形式に加えられる第三のジャンル(ティマイオス48e)
・コーラについての言説;原理的な対立措定の数々によって事を処理し、一つの正常な対を考慮するのと同様にして、起源を考慮に入れるような、そんな哲学の確信に満ちた言説の手前まで戻ること
 〜模範とコピーの対立措定の手前まで戻ること
 >不純で危うく、私生児的で雑種交配的な哲学的言説を要求してくる、そんな一つの前-起源へと立ち戻ること
  〜不純さ、危うさ、私生児的、雑種交配的などの諸特徴は否定的なものではない。
  >>というのも、これらの特徴を持った言説は、真実ではなく「いかにもありそうなもの」に過ぎないかも知れないが、それでも、これらの言説は必然性に関して必然的なることを告げているからである。--真実と必然性という区別
 >「ティマイオス」というテクストの難解さは、真実と必然性の区別に起因し、その大胆さは、哲学(二元論。知の同一性、伝達可能な意味内容)なるものに先立ち、それを受け取るような一つの必然性(コーラ)へ向けて遡行することにある
 ・コーラについての言説は、哲学(模範・パラディグマに従って形成された宇宙・コスモス)にとってコーラが演じるのと同様の役割を演じる
  〜人がコーラを記述するのに適切な(だが必然的に不十分・非十全な)諸形象を組み上げるのはこのコスモスの中においてである
・コーラと「アテナイ人」の類同性;コーラを思考するためには宇宙(コスモス=哲学)の誕生よりも以前に遡る必要がある。
 =アテナイ人の起源が彼らの記憶を超えて喚起されねばならないように
 >建築的構成への配慮
 〜材料(必然的原因≒コーラ)を使って、成すべく残された推論の横糸を結び終え、我々の物語に冒頭と調和する目的を与えること

コーラ
1 有賀 [2006/12/23,18:03:34]
ART BBS2が止まったままですので、こちらにでも。

●『コーラ』


・コーラはその名として訪れ、名以上のものの侵入を告知する。
・コーラは感性的でも叡智的でもない、第三のジャンルに属している。
 >イエスかノーかの二値論理(無矛盾性の論理)とは対称的な、別の論理
  >排除の論理と分与(分有)の論理における二者択一性は、名付けることへの不適当さに由来する。
  >>コーラは「あれでもなくこれでもない」とすら言うことができず、「同時にこれでありかつそれである」とも言うことはできない。=あれもこれも名指してはいないということ、あるいはあれとこれとを語っているということを想起させるだけでは充分ではない。

・呈示され現前しているかぎりでのコーラについての言説は、自然なロゴス(正当なロゴス)から生じてはおらず、雑種交配的で私生児的、それどころか退廃してさえいるような推論から生じている。それはあたかも夢を見るかのように告げられる(52b)
 *該当箇所から引用する。
 〈そこで、事情が以上のようだとすると、次のことに同意しなければなりません。すなわち、まず一つには、同一を保っている形相というものがあるのですが、これは、生じることも滅びることもなく、自分自身の中へよそから他のものを受け入れることもなければ、自分の方がどこか他のもののなかへ入っていくこともなく、見えもしなければ、その他一般に感覚されることもないものなのでして、じっさいこれは、理性の働きがその考察の対象として担当しているところのものなのです。そして、以上のものと同じ名で呼ばれ、また以上のものに似ているものが、二つ目です。これは、感覚され、生みだされ、いつでも動いており、ある場所に生じては、再びそこから滅び去っていくものなのでして、思惑によって、感覚の助けを借りて捉えられるものなのです。そして、更にまた三つ目に、いつも存在している「場」の種族があります。これは滅亡を受け入れることなく、およそ生成する限りの全てものにその座を提供し、しかし自分自身は、一種のまがいの推理とでもいうようなものによって、感覚には頼らずに捉えられるものなのでして、ほとんど所信の対象にもならないものなのです。そして、この最後のものこそ、我々がこれに注目する時、われわれをして、「およそあるものはすべて、どこか一定の場所に、一定の空間を占めてあるのでなければならない、地にもなければ、天のどこかにもないようなものは所詮何もないのでなければならない」などと、寝とぼけて主張させる、まさに当のものにほかなりません。じっさい、われわれはこうした夢見心地の状態にわざわいされるために、寝とぼけていては把握できないような、真に存在しているものについても、眼を醒まして、いま挙げたような区別のすべてや、その他これに類した区別を立てて、真実を語ることができなくなるのです。〉『ティマイオス』種山恭子訳
 ほかに、〈 >>*プラトン『ティマイオス』から、関連箇所を抜粋引用。
     →「さてそれでは本論に帰って、万有についての今度の出発点は、前のよりももっと分類の規模を広げたものにしましょう。すなわち、あの時は、われわれはただ二種のものだけを区別したのですが、いまはそのほかに第三の種族を明らかにしなければならないのです。というのは、前の話題では、あの二つのもの--つまり、一つはモデルとして仮定されたもの・理性の対象となるもの・つねに同一を保つものであり、第二は、モデルの模写に当たるところのもの・生成するもの・可視的なものだったのですが--この二つだけで十分間に合っていました。・・しかし今は、議論の方がわれわれに、とらえどころのない厄介な種類のものを、言論によって明るみに出すようにつとめろと迫っているらしく思われます。・・いったいどのようなものを、火よりもむしろほんとうには水だと言わなければならないのか、また、どのようなものを、何にせよある一定のもの--つまりそれを(同時に)全部のものとして言うのでもなく、順番に個々それぞれのものとして言うのでもなく、それよりもむしろある一定のもの--だと言えば、何らかの信用のおける確実な言葉を使ったことになるのか、これは厄介な問題なのです。・・まず第一に、われわれがいま「水」と名付けているものも、--とにかくわれわれの思っているところでは--凝固すれば石や土になり、融解したり分解したりすると、この同じものが今度は風や空気になり、空気が燃え上がると火になる、といったことが見られ、また逆に、火が凝集して消えて再び空気の形へと帰って行くのが見られ、空気がもう一度集まって濃密になると雲や霧になり、後者がなおもっと圧縮されると、そこから流れる水が生じ、水から再び土や石が生じて、こうして--とにかく外見では--それらが互いに回り回って生成を与え合っているのが見られます。
 *コーラは、目に見えず、形もなく、何でも受け容れるもの、である。「そのものの(*コーラの)火化された部分が、いつでも火として現れ、液化された部分が水として現れ、土、空気の場合も、例のそのものが、そうした土や空気の模造を受け容れる限りにおいて、それぞれとして現れるのである。」〉

 >ロゴスでもなく、ミュトス(神話)でもないが、このロゴス/ミュトスという対立に場を与えつつ、自らはその法に従わないもの(場=コーラ)の、必然性を、いかにして思考するか?


・これは二つの極の間の揺れ動きではなく、二種類の揺れ動きの間の揺れ動きである;二重の排除と分与・・「あれでもなく/これでもない」と「同時にであり、これかつそれである」との間の揺れ動き
 >コーラとは、存在の二つのジャンル(つねに同一を保ち理性によって捉えられる:完全・真実/つねに生成状態にあり感覚によって捉えられる:不完全・所信=ありそうなもの)に対する第三のジャンルである
・コーラという語の翻訳は、解釈の網目に捉えられたままであり、我々の誰一人としてそれを免れてはいないような、遡行的に見出された目的論的投影である。(場、場所、領域、用地、地方、母、乳母、受容体、刻印台・・・)
 >我々が証明したいと思っていることは、転義とアナクロニスムを不可避的なものとしつつ、なお、それらを偶発事や弱点、かりそめの瞬間などとは別のものにするような構造である。
・『ティマイオス』に捧げられた豊かで汲み尽くし得ない膨大な文献、諸解釈は、コーラの意味作用と価値を知らせに(コーラを限定しつつ、形を与えるために)やってくるが、コーラはそれによって汲み尽くされるがままにはならない。諸解釈がコーラに形を与えるのではなく、コーラがそれら諸解釈を受け取り、場を与えるのである。
 >われわれは、「コーラ」によってはじめて、「受け取ること」ということが何をいわんとしているのかを学び始めることになるだろう。
・コーラは一見固有名詞のようでありつつも、その指向対象は実在しない。
 >>コーラ=X は、何一つ固有のものを持たず、不定型なままにとどまるという固有性しか具えていない。特異な非固有性。

絵画における真理
パレルゴン  まとめ3 有賀 [2006/12/04,19:28:54]

 「これはよい絵である(面白い絵である)」という判断は、権威としての/体系としての価値判断への同一化がなせる業だ、ということかもしれません。新奇さ、あるいは作者の例外性が求められるとき、という条件付で。オリジナル(「目的なき合目的性」としての自然・動物)は、やがて復讐する。亡霊のように。オリジナルはシミュラークルをなしで済ましうるのみならず、シミュラークルを駆逐するのだから。
 とは言え、どんな「ヒント」も他者から受け取ることはできないのでしょうか。何かしらの「ヒント」を得て、新たな制作に着手する者の感じる悦びは、その方法論なり理論なり認識なりが未だ未知のものであると映じる点にこそある、と思います。ただ、それが完成されてしまったものであるならば、常にすでに遅れている学習の過程でしかないのですが。(誰かがその答を知っているという意味での「問題」ないし「秘密」。)カントが言うように、未知であるからこそ、その過程を純粋に楽しむことができる。(しかし、全体の遅れゆえに、ということではなく。)そして未知であると映じるのは、そこにはオリジナル(対象)とは異なるナニモノカの到来が、少なくとも予感されているからではないでしょうか。あるいは現在とは異なるナニモノカ。(この「ナニモノカ」を与えるのは、他者ではなく自分である。)デリダの言う、「翻訳」あるいは「自分の口を通じて他者が語る」ということの意味は、ひょっとするとこういうことかも知れません。わかりませんが。

絵画における真理
パレルゴン  まとめ2改 有賀 [2006/12/04,00:06:29]
ついのんびりしてしまった。あほか、俺は。急いで続けましょう。
 「目的なき合目的性」の無目的性は、原因と結果の切断すなわち対象と主観の切断において、未だ一般的な概念たり得ない局所的主観の経験であるとされるのでした。つまり、純粋な、労働そのものが与えてくれる(目的を捨象した)楽しみ。あるいは、片想いの楽しみ。しかしてその局所的主観は、自らの「戯れる快の感情」を以て「価値」そのものに個別に一票を投じる権利を授かるのでした。つまり、労働そのものの楽しみ、片想いの妄想に「価値」はないが、その労働(恋慕)を利用するXの目的(価値)の正しさを、労働(恋慕)の快によって根拠づける。‘自己意識への’現前化(提示・自己へのプレゼンテーション)における自由な構想力の戯れは、人々の間の最大限の合意(統制的理念)に自らを服従させる、ということですね。
 では「価値」はどこから来るのか。カントによれば「目的なき合目的性」それ自体には「魂がない」すなわち価値を生みだすことができないとされる。「戯れる快の感情」は流通させられないので、流通する貨幣に交換されることで価値を与えられねばならないのでした。(けれど事態は逆転しているのであって、むしろ、与えられた対象から新たな言葉を引き出さねば、「認識」の方こそが運転をストップしてしまう、ということですね。カントが示したように、「目的なき」の「なき」は、あくまでも理性的関心から遡行して見出されるものでした。)流通する「価値」とは、理性的存在である「人間」の「理想」でした。つまり、一つの閉じた体系内における「理想・利益」でした.「価値」を授けるのは人間である、ということ、認識を引き出すのは一つの流通体系の内部においてであることが、ここで示されているわけですね。批評にせよ制作にせよ、何か新たな認識ないし新たな問題を求めるとき、つまり理性によって目的論的に対象にアプローチするとき、例外としてであれ唯一性としてであれそこに見出される「目的なき合目的性」としての「他者」を、歪めずにはおかず、自らの帰属する体系内での流通可能性においてしか捉えることができない、ということです。
つづく

絵画における真理
パレルゴン  まとめ1 有賀 [2006/12/01,21:25:29]
デリダの思索は、あまりたくさん読んではいないのですが、たぶん、「享受」、十全ではあり得ないが十全足ろうとする「享受」に向けられている、と僕は思います。まあ、画家にせよ文筆家にせよ、発信者は常にそれを要求するものであり、正当な要求でもあろうとは思うのですが、はたして生産的な議論であるかどうか、ちょっと疑問に思う点もあるので、ここではそちらにはふらず、カントを読みなおすということからアプローチしようと思います。
 さて、一方の体系が他方の体系を継続的に支配し搾取し続けるという図式が、カントの『判断力批判』を貫いている、というのが、まず一つめのポイントでした。カント哲学の二元論、判断力批判を貫く本質-非本質の区別は、デリダによれば、目的を持たないものと目的を自ら設定できるものの区別に基づく。(自然(=機械的運動)と自由(=機械的運動に目的を与えること・文化)の区別。)ところで、カントが言う「目的」とは、「目的」一般ではなく、ある特殊な意味合いを与えられているものでした。目的の名に値するのは、自然界には存在しない理念・文化(理想)のみである。つまり、日々飢えに追われ、洪水や地震を予知して逃げ出す動物は、理想や文化によって自然の困難に対処するわけではないのだから目的的に行動していないと言える。堤防を造り、耕作(工作)を為すことこそが、理想と文化に支えられた、賞賛に値する人間としての目的論的行為なのでした。カンディンスキーも同じようなことを言っていました。芸術は精神的な日々のパンである、と。形式とその外部、という図式ですね。ベクトルの違いによって形式主義になったりロマン主義になったりする。さて、問題はここから先で、と言うのも、ただ人間のみが理想を能くするのである限り、目的を持たない自然および動物一切は、人間をその最終目的とせねばならない、と、カントが結論するからでした。自然や動物が人間を目指すというのではなく、人間が自然や動物を利用することは人間の生存にとって必要不可欠でありかつ人間が理想と文化に基づいた存在だから、です。この論考の間違いは、まず人間の生存にとって必要であることと、理想・文化を同一視していること。さらに、Xを手段として利用すること(目的に役立てること)とXの目的を同一視していることにありました。ここに、一方の体系が他方の体系を継続的に支配し搾取し続けるという図式がある。お前のものは俺のもの、俺のものは俺のもの、というジャイアン的法の力が。「人間」と「X(自然、動物)」および、「理想を能くする」のそれぞれの項に何を代入するかは、今はやりません。これらが関係項だということの確認さえすれば十分です。
 さて、「人間」と「自然・動物」の関係は、件の「目的なき合目的性」にも及んでいる、というのがデリダの診断でした。どういうことか。これがけっこうややこしいと僕には思えます。そもそもカントが『判断力批判』を書いた理由は、先行する規則がないにもかかわらず規範となるような規則を産出する「判断力」なるものを解明するためでした。「規範」という言い方が既にかなりバイアスかかってますが、「合意形成」と言った方が無難でしょうか。『判断力批判』の対象は、「判断力」が何ものをも認識しない(「空虚な概念」)にもかかわらず、判断としては認識能力にのみ属している(「自己自身を規範とする主観的規則」)という「快の謎」にある。「先行する規則がない」ということが、カントによれば「認識なし」「概念なし」ということでした。つまり、「薔薇は美しい」という言明は概念に基づいた論理的判断であり、「このもの、この唯一のXの美しさ(快の感情)についての、我々のものの見方」が趣味判断です。これはかなり過激なことを言っていて、カントは、彼の理論に従うならば、ウンコだって殺人現場だって「美しい」と、時には判断することができるのでなければならない。完全に知覚を捨象してはじめて何かを美しいと言うことができるのだ、というわけですから。デリダが言及しているカント的曖昧さをいったん無視すれば、「戦争画が美しい」のではなく、「戦争画であろうとなかろうと、このもの、この唯一のXについての、我々のものの見方の美しさ(快の感情)」がある、ということですね。美は対象の属性ではない、主観に映じた表象だということです。しかしこれだけでは、実のところカントの当初の目論見は達せられない。いかにして産出的構想力が可能になるのか。したがって、ここから「天才」の議論が始まるのでなければなりません。

絵画における真理
パレルゴン  最終回 有賀 [2006/11/27,19:38:32]
いよいよ最終回です。
まとめは次回にします。

*芸術における、理性による関心(天才)と、美感的判断(趣味・歴史的記憶によって形成された合意)の齟齬が、ここにある。道徳的理性による関心と自然の資質を切り離し、「自然」によって美感的判断を破綻させようとするなら「リアリズム」になる。ここで出てこないのは、美感的判断とされるものに内在する「天才」である。すなわち、そもそもカントが問いを開始した場所、すなわち、判断力はひとつの自律した能力であるか、という問題に対する解答である。

・内部の表出である表示(現前)の美および道徳性への結びつけ;道徳的記号論
 >この人間主義は、趣味判断に対する文化と人間学の介入を正当化する
  >この言説の不統一性、不決断を説明する二つの指標
 1 共通感官
  >普遍的合意をとりまとめる規則それ自体は、あらゆる言表を超出していなければならない。したがって、共通感官とは常識(知性および悟性の働き)ではない。
  >>共通感官において不問に付され、ゆえに道徳と文化を招じ入れる契機となるのは、純粋な趣味の美感的原理が、普遍的同意を得る限りにおいて、固有の権能に対応する特定の場を持つのかどうかということである。
    >あるいはその理想化の過程において、行き先を示すのは外部の共同体による合意(理念)であるのかどうか、ということである。
 2 芸術の区分
  >芸術の区分およびこれらの階層化は、人間の言語活動との類比に基づいていた
  >>だが、この区分も階層化も、カントは試論に過ぎず(理論として判断されてはならず)、自ら自信のないものだと明言している
  >だが、この区分に対する自信のなさは、カントの体系全体に影響を及ぼさずにはおかない(この区分とは異なる区分を、カントが考えることは不可能である。);人間の言語と身体の上に統制され、話し言葉と視線によって支配された言語として解釈された人間の身体の上に統制される演繹的推論
  >>アナロジー的原理は、人間中心主義的原理と不可分である
  〜人間が「自然」と神との間にあるときのみ、規定的判断と反省的判断との間のアナロジーが理解しうる。「規定的判断力は悟性によって特殊を普遍のもとに包摂する。だが、自然の形式はそれ以上に多様である。これらは経験的法則である限りわれわれの悟性にとって偶然と呼ばれるものにすぎないが、反省的判断力の責務は自然における特殊から普遍へと上っていくことにあり、これら規定されずに残された特殊的自然法則を、「ある悟性(われわれのものではないにせよ)がわれわれの認識能力に鑑みてかかる特殊的自然法則に従う経験の体系を可能ならしめるために予め与えておいたものであるかのような統一に従って、考察」することにある。カントはこのような悟性が、けれども実際に存在するものと想定されてはならない、と言う。それは反省の契機として用を成すだけだからである。」
 ・・したがって、自然的目的性は、行動する前に自ら目的を設定する人間的芸術(技術)とのアナロジーによって考えられるのである
  ;芸術=創造主の業
・エコノミメーシス
 >模倣に逆らって、しかし、類比によって
  >人間学的-神学主義と、類比主義の結合は、一つの岬を指し示している
 >束縛されない美には、この「岬」が欠如している
 〜束縛されない美は空白のなかを彷徨する美であり、対象という補完物(目的補語)を持たず、客観的目的性をも持たない。
  >>しかし、彷徨的な美を視野に収める体系の全体は、岬を代補し、自由をそれとして規定し(運命)、彷徨に方向(目的地)を与える。
  >ミメーシスのエコノミメーシスは、同一なるものの周期的反復、絶えず自らを再形成する同一なるものと固有なるものの法である

絵画における真理
パレルゴン 有賀 [2006/11/27,18:54:42]
 >実用的人間学=反省的人間主義
・なぜ、「馬」は人間のためにあると言えるのか?
 >カントの議論は以下のように進む。
  1 人間が馬を乗用に用いたり鳥の羽を装飾に用いたりすることは、自然の目論見(目的)ではなく、理性の自由に起因する。(自然が人間をそのような行動をするよう定めたわけではないから。)
  2 だが、人間が用いるこれらの諸手段(自然の利用)は、人間が生きてゆく上で不可欠なものであり、必然的なものであった。
  3 もし、人間が「この地上」(*「」は有賀)において生きてゆくことを許されているとするなら、人間の生活にとって不可欠な自然の諸事物は自然的目的であると見なすことができる。
  〜それゆえ、馬は人間のためにあり、人間は人間のためにある、のである
 (*明らかに、この議論の矛盾は1と3の間の矛盾にあり、この矛盾は、反省の契機として用を為すだけの、実際にあると想定されてはならない悟性すなわち「自然の超感性的原理」を、人間が「この地上」で生きてきた歴史の必然性に置き換えたことから生じている。偶有的なものないし経験的なものを必然ないし普遍と見なす誤謬。カントの目的論は、「この地上」から離れることができないばかりか、そこを目指している。)
・一つの美の理想の所持者である人間は、また、理想的な美を付与されてもいる
 >理想的な、とはどういう意味か?
 >>趣味の規則は概念によって規定されるがままにはならないが、普遍的な伝達可能性によってあらゆる価値評価を条件付ける
  >凡例的(事例)なものの価値(必然的に経験的であるような基準)が唯一の参照物となる(*カントが事例に従って議論を進めたことの理由はここに認められるとしても、ア・プリオリな総合判断という魅力的な(というより元来は数学に刺激された。しかしなぜ物理ではないのかがわからない)アイデアを、語り得ないが現実存在するような凡例を再認すること、という結論で片づけてしまうのはもったいないと思う。)
  〜趣味の歴史、文化、人間学的性格が生じる;趣味は事後的に、事例に倣って構成され(*趣味とは起源にある主体に同一化し、これを反復することである)、概念の不在がこの反復の歴史に地平を準備する(*一周年などという時の、「周」・周期的時間。)
  〜同時に、この反復と再認の「歴史」は、普遍的すなわち非歴史的なるものによって事例たり得る
 (*では、「趣味」の歴史から逃れる術はどのように構想されるのだろうか?)
  >範例的なもの(マスター)の自己産出の図式とはなにか
  >1 事例は概念的なものではないから模倣され得ない。趣味判断は、自律的である。(*自分が考えたとまでは言わないにしても、「自分で」考えたというくらいには言えるような、追想の・再生の自律性。)
  >2 最高の手本は「理念」でしかありえない。雛形(型・マスター・パレルゴン)は必要だが、これを模倣してはならない。
  >3 美しいものの範例は、理性の理念(統制的理念)に適合するような個別的産出である。;理想
  >4 現前化(提示・プレゼンテーション)における自由な構想力の戯れは、人々の間の最大限の合意(統制的理念)に自らを服従させる。
 >人間は理想を産出することができるがゆえに、人間のみがプレゼンテーション(提示、現前化)をする(*すなわち、プレゼンテーション(作品)はそれぞれの個別性において、再生的自律性に基づいて合意形成された理想を示す。すべての解答は最初の凡例に含まれている。)
 
・一つの裂開--カントの問い
1 人がこの理想に到達しうるのはア・プリオリにか、それとも経験的にか?
2 いかなる種類の美がこのような理想を生じさせるのか?
 >彷徨的な美はどんな理念も生じさせることがない。(自由な美)
 >理想的な美は純粋な趣味判断を生じさせないが、概念に従って対象の内的な可能性をア・プリオリに規定する理性の理念を内包する。(付着的な美)
  〜ゆえに、ひとは「美しい花」(自由で束縛されない美)を思考することはできない
 >> 純粋さと理想は対立し、両立しない。
 >しかし、構想力における理想的なるものと純粋なるものとの対立を生じさせる「なしに」の有無は、どこから来るのか?(*目的をかっこに括らせるのは何か、誰か?)
 >>それは「人間」である。
・理想的なるものと純粋なるものとの対立における主体は「人間」である。
 >人間は彷徨的な美と付着的な美との双方を見渡せる位置にあるのではなく、付着的な美の側(理想・目的を能くするもの)にあり、この位置から、彷徨的な美(自由・純粋な美)を視野に収めるのである。
・純粋な切断である「目的なき」を可能にするもう一つの分割
 >人間の美に関する二つの理念
 1 いかなる個別的存在も完璧に適合するということはないが、経験的理想(美感的理想)として構想されるような「典型」(=美感的標準的理念)
  >>互いに似ても似つかぬような、異質なもの同士の縮減(還元)による「快」(*クレーには、このような還元的な「快」に基づく作品がいくつかある。マチスの肖像画の中にも、そのようなものがある。安易である。(ちなみにクレーの面白さは、むしろ、同じような対象を描いているのにまったく異質なものになるところにある。)モホリ・ナギは、「優秀な学生」の典型を示す写真を合成で作るという試みをしている。このような操作は、いわゆる「まとめ」や「要約」とは異なる。「要約」は運動の構成ないし抽出であるが、還元は最小公倍数の抽出である。)
  〜快の原則が認識を命じ、条件付ける;構想力を悟性に結びつける原初的「快」
  >この美感的標準的理念は、美の原型ではなく、個別的な種における平均値である
  >美の理想は典型的な美からは区別される(*典型的な美ないし、単に自由な構想力と拡張された悟性との形式的一致にすぎない趣味。カントによれば、天才とは趣味ではなく、芸術における趣味に魂を与えるものである。芸術に豊かな素材と総合的な規則を与える自然は、主観に生まれついた資質を通じてのみ働く(天才)。天才とは美的理念の能力である。「理性の理念」(神、死、愛など)は経験を超出するが、一方で「美的理念」は、われわれに与えられている自然とは別の自然の直観を創造するがゆえに、すべての概念を超出する。「美的理念」は思考を強いる。ゆえに、天才については、自然美についての諸結論が適用できる。)
   〜美の理想は人間においてしか生じない
    美の理想の条件;絶対的内在性と絶対的道徳性の介入
  >「道徳の象徴としての美について」
   >>この象徴的なるものは、内部から外部への表出として、内部と外部の現前的統一として定義されている。表出主義的で象徴主義的な美の秩序は、人間のうちに人間のために場所を持っている。(*晩年のベルクソンが「感情」emotionと呼んだものが、ここで言われる「天才」である。ここでは、デリダの初期からの主張である、現前性批判が開陳されている。)

絵画における真理
パレルゴン 有賀 [2006/11/27,02:32:54]
仕事が泥沼化しております。
一ヶ月くらいは何もできない。やばい。

僕の体調というか頭調の維持のためだけにやっておりますこの読書会
短いですが、続きます。

・彷徨的なものと付着的なものの区別は、自然のなかで特権的な位置を占める人間という名称の元に繋ぎ止められていることによって理解される
 >付着的な美における三つの事例が示しているのは、それらの対象の経験においては、「目的なし」という切断が、すなわち視点の変更が決して起きないということである。なぜか。これらの諸事例が人間学的(馬は人間がその中心であるような自然のためにある。)だからであり、人間学的主体は、自己を「目的なし」の存在だと考えることができないからである。
 >>三つの事例それぞれは、廃用になっても自らの目的的使命を残存させることから、「人間」という主観による規定から逃れられない(諸事例の、人間に奉仕するという目的による存在規定;内的使命=付着的な美)
 >主観性とは付着性である(人間の合目的性によって組織された包囲環境)
 〜人間は美の理想ゆえに、自らを「目的なき合目的性」としての自由な美であると考えることができない
・カントによれば、人間は自然の目的の一つであるのみならず、最終目的である(第二部83節)(*カントが人間を自然の最終目的であるという理由は、人間が自然のなかで格別優遇されているとか甘やかされているとかいうことではむろんない。病気もあれば災害もあり、あまつさえ人間自らが産み出す災厄すらある。自然の慈愛の中に生きるという理想的な幸福を、人間は享受できないのである。人間が自然の最終目的であるとカントが言うのは、人間のみが自然と独立に自ら目的を定め、自然を手段として使用しうるからである。したがって、カントによれば、「最終目的」とは現世・自然における人間の幸福でもなければ、自然に調和と秩序を授けるということでもない。ここから、「統制的理念」なるものが出てくる。)
 >『判断力批判』の体系は(反省的判断力は)、理性の諸原則および人間のために方向付けられている
 >>カントによれば、主観的目的論と客観的機械論とのアンチノミーは、自然の超感性的原理において解消されるべきである
  〜人間は理性および悟性によるアプローチにおいて諸存在を目的論的にしか扱えない。言い換えれば主観的にしか考察し得ない。ゆえに、人間が自然において到達すべき目的は(自然と結びついた目的)、自然の慈愛によって可能となるか、さもなくば自然が利用される諸目的への練達(開化・心的能力の開発)によって可能となるか、このいずれかしかない。
 (*反省的判断を可能にするのは、反省せよと命ずるのは、目的論的原理であった。すなわち、実際に存在するものと想定されてはならず、反省の契機として用を成すだけの、規定されずに残された特殊的自然法則にこれに従う経験の体系を可能ならしめるための統一性を与えるような悟性および、これを命じる理性、であった。--これが、カントによる「主観的目的論と客観的機械論とのアンチノミーの解決」である--)
 >実用的人間学=反省的人間主義
・なぜ、「馬」は人間のためにあると言えるのか?


絵画における真理
パレルゴン 有賀 [2006/11/21,12:35:30]
珍しく仕事が入り、しかもなんと複数の仕事が重なり、僕は今週からしばらく忙しくなります。というわけで、掲示板をお休みします。

絵画における真理
パレルゴン 有賀 [2006/11/19,13:11:02]
・三つの問題
 1 批判における人間の問題としての、類比(アナロジー)の問題
 A カントによれば、男性や女性の美しさは、付随的なものでしかありえない(*ここでカントが行っている人間と件の野生のチューリップとの間の区別は、曖昧である。とは言え、デリダの議論はしつこく「野生のチューリップ」を告発するけれども、むしろカントのよく知られた定義とは「自然は芸術のように見えるとき、美しい」の方ではないだろうか。こちらの命題を捨てる理由を、なるほどカント自身による矛盾はあるにしても、ここまでのデリダは示していない。確認すれば、デリダがここで論じているのはカント哲学の可能性ではなく、カント哲学を必然的に矛盾の状態に追い込むような、カント哲学に含まれたある理論を内在的に分析し、抽出することにある。そうした例が、これまでの論行においては「パレルゴン」の理論(代補の理論)であった。)

 B 世界のあらゆる対象の中で、ただひとり美のひとつの理想を能くする人間
  >>人間の付随的な美と、人間のみが件の思想の持ち主であるということの関係
  >理想的な美と美しいものの理想とは概念的には同じではない、とは言え、これら両者を等価に交換することを保証しているのは「人間」である
 C もろもろの美的体系と階層秩序は、なぜ人間の言語というアナロジーにもとづくのか
(*ここで言及されているカントの理論とは次のようなものである。芸術を区分しようとして、試みに最も便利な事例を選ぶとするなら、それは会話における表現の手段である。会話は、言葉にすること、身振り、声の調子の三つの表現によって、話者の思想、直観、感覚を聞き手にそっくり渡すことができる。ゆえに、芸術には三つの芸術しかないことになる。すなわち、言語芸術、造形芸術、感覚の遊びの芸術。カントがなぜ、このような事例を出したのか、また、このような事例がなにゆえに芸術の考えられ得る限りの形式を規定することができるのか、その説明をカントはしていない。)
 2 生産的構想力と人間的生産性の区別という問題
 >再生的構想力と産出的構想力の区別=報酬のための技術と報酬を求めない技術(*それ自体において楽しみを与える技術。)→生産性、報酬、売買の問題;『エコノミメーシス』
 3 崇高なものの問題
 >美しいものについての、これまでのカントの言説から排除されているのは〈反-目的性〉である。(この〈反-目的性〉は、美しいもの((と、デリダは言うが、カントの区別に従えば「自然美の観照」、「趣味判断」))の分析論に対する、パレルゴンを要請するような欠如を形作る)
 >〈反-目的性〉=「消極的な快」(気に入らないもの)=崇高
 >>カントによれば、美しいものはそれ自体によって我々の生を促進し強化するが、(*篠田英雄訳によれば、「心的能力の開発」である)崇高の感情は、もっぱら間接的にのみ湧出する快である。生命的諸力の瞬間的な停止の感情に引き続いて起こる生命的諸力の一層の力強い噴出である。(*デリダも後に述べているが、よく言われるように、これは「射精」の図式である。)

・理想的な美と美しいものの理想とは概念的には同じではない、とは言え、これら両者を等価に交換することを保証しているのは「人間」である
 >カントによれば付着的な美、すなわち、何であるべきかという完璧性の目的によって規定された対象とは、人間の美、馬の美、建築の美、であった。われわれは純粋な美を見るか目的を見るかのどちらかを選ばねばならないのだが、このように観点を変える可能性を、人間や馬や建築の場合には持っていないのに、チューリップや鳥や甲殻類の場合には持っているのである。なぜか。
 >>この問いに答えるためには、『判断力批判』全体の中心を設定し直し、目的論的判断力の批判における人間の位置についての諸命題がいかに先取りされているかを見極める必要がある。

絵画における真理
パレルゴン 有賀 [2006/11/17,19:03:34]
・人はチューリップの全てを余すところ無く知ることができる、何のためにそれは美しいのかということを除いては。(*問題は、カントが「目的なき」というときの「なき目的」とは、いかにして発生するのかということである。このことを、カントは十分に説明できていないというのが、デリダの主張であろう。言い換えれば、「作品」の発生を、カントは説明していない、ということではないだろうか。)
 >なぜ学問は美について言うべきことを持たないのか
  >>自由な美と付属的な美(束縛された美、なんらかの知によって補完されうる美)との区別は何を意味するか?
 >カントによれば「自由」とはあらゆる束縛あらゆる規則から自由であることを意味する。(*=目的なし、ないし無関係性、ないし「解釈の自由」。しかし、「解釈の自由」については、デリダは『パッション』のなかで、「無限の解釈」としてむしろ肯定的に論じている。したがって、ここでデリダのカントに対する批判は、あくまでカントの論行についてのものであると考えるべきだろう。)
 >>自由=空き地(完全)
 〜純粋な美についての記述を生じさせる当の「美」は、あらゆる束縛や規定から離れた彷徨(散種)であり、自分の向かう方向へ緊張しつつ自己を差し向けるものの、その方位(対象)からは絶対的に切断される。(*カントの言う「虚飾」とは虚偽を告発するという意味での道徳的判断ではない。「自由」でない、という意味での道徳的判断である。)
 >>付属美(=不完全)
 〜付属的な美は自らが何であるべきか(適合、一致の真理)についての概念に結びつけられている。=概念へのぶら下がり、寄生
→自由な美は、当の個別的現実存在のみに差し向けられ、これを包摂する概念には差し向けない。チューリップの美は、完璧なチューリップ(イデア)によって測られるのではなく、この固有のチューリップにおいて、ある。(*規範はないがしかし完全性が求められているのだから、カントが言うのはどんなチューリップであれ固有の美しさを備えているということではなく、固有のチューリップそれぞれに、完成した美がいくつか想定されうるということである。だが、その場合においても、カントがその価値を十全には説明できないというデリダの件の批判は、正当なものであるように思われる。「美」が野生の自由を堪能する快/不快の感情によって包摂されている限りは。(合目的性が目指すところは「美」である。)つまり、完全--不完全の基準が自由(野生の自然)と束縛(必然)として論じられている限りは。それにしても、カントの『判断力批判』は美学を扱うのであって制作を扱うのではないと言われてしまえばそれまでかも知れないが、「目的なし」という条件の下で、どうして構想力が働こうか?これが、批評および研究と制作の、根源的なすれ違いの一因ではあるだろうが。)
 >美は一回的であり、個別であるが、普遍化しうる判断を生じさせる→『純粋理性批判』の枠を持ち込む契機
 >カントによれば、植物学者が自由な美に接するとしたら、そのとき彼は植物学者(として)ではないだろう。(*しかし何が、植物学者から知的関心を奪うのか?それは見たことも聞いたこともないチューリップの出現によるのではない。カントが趣味判断の対象としているものは対象の構造ではなく、主観的表象の構造であるから。なぜ対象の構造と主観的表象の構造は区別されねばならないか。もし趣味判断が対象の構造に向かうならば、自然においては構造的に区別されないような対象の中から(例えば顔、あるいは植物)、なぜわれわれはあれよりもむしろこれを選ぶのか、美しいと呼ぶのかという難問が残るだろう。ところで、カントによれば、野生を装った人工のチューリップ=造花は(それが造花と判明したとたん)美しくない。(これは今日の常識的見解でもある。)つまり、主観的表象の構造が外部の対象の構造を模倣したもの(偽ったもの)であると判明したとき、それは美しくないのである。だが、それが造花・模倣であると判明するまでは主観的表象の構造として両者に区別がなかったのであるから、表象の構造における正当性、出自と由来、必然性などは、その外部に「現実存在する」対象としての参照項を否定的なものとして持たぬことには、厳密には示し得ないことになる。言い換えれば、表象の構造と対象の構造の区別がついたとき、それは美しくない(虚偽である)、と、カントは言っているのである。これは矛盾である。対象の構造をパレルゴンと化するがゆえに生じた矛盾である。したがって、やはり、一体何が、誰が、植物学者から知的関心を奪うのかという疑問は消えない。むろん、ここで議論されているのは自然の美についてである。カントによれば、美的技術(芸術)においては、美学的理念は対象の概念を機因として表現されねばならない。これに対し、自然美に関しては、対象が何であるかということの概念には関わりなく、与えられた直観に反省を施しさえすればよいのである。(51 芸術の分類について)困難は、自然美から芸術美への移行において現れる。)
・人工的な自由な美(芸術)はいかにして現れるのか?
 >事例=装飾、即興曲・変奏曲、幻想曲、歌詞のない全ての音楽
 〜枠構造と構造的に同質であるような、目的性の形式をもつ形態と線の戯れ
  =人が名付ける術を知らないような「物」≒痕跡、テクスト
 >>パレルゴンに関するカントの言説と、芸術に関するカントの言説の間にある矛盾
・彷徨的と付着的とは、美にとっての二つの述語である。
 >美一般が彷徨的と付着的に分岐するのであれば、そのように分岐する以前の「美しいものの本質もしくは現前とは何か」
 >>付着的な美と彷徨的な美との関係の、逆転可能性(カントによる階層化への批判)
 〜もしも彷徨的な美が、目的との間に無関係という関係を持つとするならば、付着的な美のみがわれわれにその事例を与えてくれるような目的と、おのれは関係を持ち得ないというその不可能性から出発してのことである。
  >>付着的な美の方が、彷徨的な美よりも不純であるかも知れないがしかし、一層美しく、一層完璧であることになる(美について、一層多くを、われわれに教える。)

絵画における真理
パレルゴン 有賀 [2006/11/16,16:42:35]
下にある絵も見てね、へへ。

では 続けます

3 純粋な切断の〈なしに〉
・カントによる美学的判断の事例--野生の、自然のチューリップ
 >(野生の、自然のチューリップという)自然の美に対する、知的関心(*知的関心と訳出されているが、日本語訳のカントに則して言い直せば「理性的関心」であろう)は、もしそれが造花であると認識されたならば消え失せてしまうだろう
  >>したがって、目的なき目的性は、野生に対してのものでなければならない
  〜カントによれば、このチューリップという対象についての主観的表象(の規則性、形式)は、一つの目的を目指しているように思われ、ある意図に応じたものであるかのように思われるが、しかし、その目的は欠如している。〜美の感情(*勘定)、欲望なき魅惑は、こうした経験に由来する(=空白の目標を目指して調和的に組織づけられたある運動の経験)
 →目的性がなければ美は存在しない。だが、何らかの目的が美を規定するべきであると考えるなら、やはり美は存在しない。;純粋な切断のみが美の感情(美の経験)を産み出す
(*美とは対象の属性ではなく、主観の表象について言われるものである。ゆえに、個別の経験において、様々な対象に対しそれぞれの美(目的のない形式、規則)が想定されうるし、議論もされうる。一般に、主観的表象における普遍性は、「見方」と呼ばれる。われわれが美しいと嘆賞して見ているものとは何か、という問いに対して、カントはわれわれ自身の「ものの見方」のそれ自体における正しさ(合目的性)だと、言うのである。)
 >カントによれば、発掘の過程で掘り出された「道具の断片」は、上記の事例としては適切でない。(*トマソンは適切でない。)なぜならば、それは「工芸品」として、一つの目的に関連づけられるからである。だが、この主張はかなり曖昧なものである。「工芸品」であろうと「野生のもの」であろうと、目的なき合目的性を原因として美の経験が生じなければならないはずだからである。あるいはまた、たとえば絵画が、同時に「工芸品」でもあるような場合(たとえば宗教画、肖像画、プロパガンダといったように、規定可能な目的と用途を持つ場合)、その絵画は美の経験を生じさせないということになるだろう。
(*だが、もっと単純に、そもそも主観における表象についての判断であるはずの「美学的判断」に(ないし格律、ないし目的を括弧に括るという行為)、事例としての対象があるということがおかしいのである。カントの議論が充分でないのはむろんこの点にも垣間見られるのだが、さりとて、あまり深入りするような問題であるのかどうか、ギモンである。絵画は工芸品として扱われるときと美学的判断の対象として扱われるときとでは同じ対象ではないというのが、本質的には、(という言い方はここでも非-デリダ的なものだが)カントの「批判」の原理であるはずだ。しかし、そうだとすると、やはり、発掘された道具を、なぜカントが美学的判断の対象ではないと言うのかがわからなくなる。ここで論じられねばならない問題とは、「目的」を括弧に括らせるのは誰か、あるいは何か、ということかも知れない。)
 >切断され中断された目的=枠
 >>したがってカントによれば、美にとって大事なのは、合目的性でも、目的でも、欠如した(不在の)目的でもなく、切断されているということそのもの、「目的なき合目的性」の「なき」なのである。(*対象が何を目的としているかは認識し得ないが、わたしに何らかの影響を及ぼしている、という因果律の切断における無関係性の自覚。)
・廃用になった道具は、「純粋な切断の〈なしに〉」を予告していた。
 >機能営為の痕跡=美が不意に現れるところの深淵(切断)と本質的な関連を持つ
 >>死は美を予告する
・カントによれば、「美しいものについての学問は存在せず、存在するのは、美しいものについての批判のみである」。
 >非-知;知り得ないものの領域=芸術の領域
 >>美の根源;目標も、目標の不在も、美の経験を生じさせない。目標が不在であるということの〈痕跡〉(*=かつてそれはあった)が、美の経験を生じさせる。
 〜目標から切断されているということの〈痕跡〉が美の経験の根源である以上、美は決して見られず、可視的なものを与えない。
(*規定的判断力は悟性によって特殊を普遍のもとに包摂する。だが、自然の形式はそれ以上に多様である。これらは経験的法則である限りわれわれの悟性にとって偶然と呼ばれるものにすぎないが、反省的判断力の責務は自然における特殊から普遍へと上っていくことにあり、これら規定されずに残された特殊的自然法則を、「ある悟性(われわれのものではないにせよ)がわれわれの認識能力に鑑みてかかる特殊的自然法則に従う経験の体系を可能ならしめるために予め与えておいたものであるかのような統一に従って、考察」することにある。カントはこのような悟性が、けれども実際に存在するものと想定されてはならない、と言う。それは反省の契機として用を成すだけだからである。デリダが批判しているのは、まさにこの「反省の契機」=〈不在の痕跡〉こそが、美の経験を発生させるというカントの立論である。美学的判断の主題である、答えなき答合わせおよび概念なしの概念への適合という営為の自己正当化、これこそが、デリダがこの論考で一貫して批判する当のものである。現実存在しないにもかかわらず、あたかもあるかのごとく従わねばならない統一性。だが、再度問えば、目的を括弧に括らせるものは何か、誰か?目的が不在であることと、目的を括弧に括るということの違いは、むろん大きい。ダンスとパントマイムの違いのごとく、大きい。そしてまた、目的が不在である表象と、不在を表象することとの違いも大きい。ダンスと墓のごとく、大きい。・・さて、デリダも指摘しているように、カントが扱っているのは不在を表象することではなく、目的を括弧に括るときに生じる表象である。だからこそ、デリダがゆえに「美は決して可視的ではない」と言い切るとき、そこには曖昧さがあるように思われる。というのも、カントに則して考えるなら、目的を括弧に括らせるのは「規定されずに残された特殊的自然法則」であり、つまるところ経験(可視的なるものも含まれよう)であるからだ。このような未だ普遍的な知へと還元され得ない経験こそを、カントは主観的表象と呼んでいるのである。この「未だ」は、それが自然の観賞であることにおいて保証されている。だが、ゆえに、カントはここから芸術を論じるに当たってもう一手余計にかけなければならなくなるのだった。それが「天才」である。ところで、目的を括弧に括らせるのは因果関係を把握していない、経験的である限りでの主体である。しかし、それが論理的に導出されるような錯誤でないと、どうして言えよう。むろん、適合の判定を下す概念が与えられていない以上、それは言えない。言えないからこそ美は議論可能なものとされるのである。だが、デリダの批判において肝心な点は、カントが「目的なし」と呼ぶもの、あたかも認識されて然るべきであるもののごとく、われわれの注意を惹きつけて止まないもの、それは何か、ということであり、その証明のプロセスである。カントが書いていないのは、なぜあれよりもこれなのかというこの選択の原理、あるいは自分のことのように感じるというリアリティ=責任感の発生についてではないだろうか。)

画像タイトル:img20061115173452.gif -(64 KB)
うなぎ?
no_title name:有賀 [2006/11/15,17:34:52]

うなぎ?の絵、ドローイングで完成。


絵画における真理
パレルゴン 有賀 [2006/11/14,17:10:10]
 >「脱構築」は、再び枠にはめ込むようなことをしてはならないが、かといって、枠の不在を夢見るべきでもない。
 >パレルゴンの論理;哲学は枠のパレルゴン性を道理によって説得しようと欲するが、首尾良くは行かず、とは言え、自ら操った枠の効果を消去するためにあらゆる手段を尽くす。
  〜『判断力批判』は一枚の絵画であり、他の『批判』から持ち込まれた枠は、その形式的な美に奉仕するパレルゴンの役割を演じている。
   >>そうした枠が、単なる剰余価値の浪費であったなら、それは虚飾に過ぎまい。だが、この枠こそが、『判断力批判』における二元論を、内と外との対立を規定するのである。
 >枠は実際に、効果的に、労働している。美しいものについての分析論は、概念の分析論と判断力に関する学説によって労働している。だが、同時に趣味の活動における概念の不在を示す以上は、枠(概念の分析論)による労働を取り消すのである。
・ミメーシスとしてのピュシス(自然)のエコノミーによって再自己固有化されないような、いかなる矛盾もここにはない。→『エコノミメーシス』
 >断固として模倣を斥けるような、美しいものについての一つの解釈
  >>非-概念的なものと概念的なものとの類比、相似
 >>趣味判断は、決して厳密には論理的判断ではないにもかかわらず、それが質的普遍性を有するためには、論理的判断に類似しているのでなければならない。
 〜普遍性、伝達の確実性=(享受も概念も伴わない)純粋な形式
・カント的問題:非-概念的なもの(右と左、上と下の差異、身体、署名)へ概念的なものを関連づけること
・枠の馴化(自然化)、枠を開拓し、利用し、馴化する
・第一次過程のみを所有しているような心的装置は実在せず、その限りでそれは理論的虚構である(フロイト)
 >理論的虚構の実践のみが、枠を働かせるが、理論的虚構の内容および対象は、形而上学、存在=神論である
・色彩も芳香も持たないチューリップ=自由な、束縛されない美
(*ここでデリダがカントを批判するポイントは、『判断力批判』が独自の(カント的に言えば上位の形式としての)証明過程を持たず、肝心な仕事(証明過程)を「悟性概念のカテゴリー」に外注しているという点であり(これが全ての二元論、本質と非-本質の区別を導出する)、同時に、その外注先を消去しようとしているということである。図が浮かび上がるとき、枠(悟性概念のカテゴリー)は壁(すなわち作品の外)へと融け込むのである。つまり、美的判断と論理的判断というまったく異なるものを扱っているにもかかわらず(この区別はカントによるものである)、『判断力批判』は『純粋理性批判』のパクリになっている、ということだ。だが、デリダの話を進める前に、もう少しカントの『判断力批判』について丁寧に考えておかねばならない。デリダの議論はやはりあまりに急ぎ足に過ぎるからだ。そもそも、美的判断が論理的判断と区別されるのはなぜか。確認すれば、論理的判断とは概念に基づいた判断である。たとえば「薔薇は美しい」という言明は論理的判断であり、これは、薔薇だから美しいのだ(薔薇とは美しいものだ)という言明として言い換えることが可能である。それは美しさとして自律できていない。一方、美的判断は個別特殊な美の表象に関わり、薔薇であれチューリップであれunkoであれゲロであれ、対象の概念に関係なく、美しいということが、このものの、固有の美しさということが先立たねばならないのである。美的判断は対象の概念や目的とは無関係でなければならない、ということは、対象と主観の間に原因と結果に対する切断がなければならないということである。理論的にはカントによる美的判断の自律性とは、こうしたものである。それは主観に対する表象の自律性である。この主観が、いかにして普遍性を得るのかという際に、カントは、そもそも知覚という行為に(覚知の総合)おいてつねに働いていることが前提されている「悟性概念」を持ってくるのである。もっとも、これは未だ芸術作品の話ではないのではあるが。)

お知らせ
表象文化論学会 有賀 [2006/11/14,02:48:23]

http://www.repre.org/event/meeting/index.html です。
石岡君に教えてもらいました。
土曜日のシンポジウムには岡崎乾二郎さんが出てますね。
日曜日は行くつもり。加治屋さんが司会してます。

絵画における真理
パレルゴン 有賀 [2006/11/13,18:53:55]
・「物」に襲いかかってくる「質料-形式」の二元論こそがパレルゴンではないか?
 もし、「残り物」がけっして固有の仕方では(的確には)規定されるに任されないものであるとしたら?
・カントが説いているのは一種の形式主義的美学(ある一つのシステムを表示する形式主義)ではなく、美学一般の空間(美術史や美学そのもの)における形式性である。
 >このような形式性は、枠づけシステムの可能性に常に結びついている
・美しいものの分析論における、カテゴリーの枠組み(*右は『純粋理性批判』におけるカテゴリーおよび、その図式・直観的理解)
 >1 質  ・・・没関心的な適意の対象(が、美しい)--これは〜である/ない、非〜である(度)
  2 量  ・・・概念なしに普遍的に気に入る(同上)--全てか、特殊か、これ一つか(数)
  3 諸目的・・・目的なき合目的性(同上)--他との関係、条件付か普遍的か、常に/もし/or(時間順序、継起的把握)
  4 様相 ・・・概念なしの、必然的な適意の対象--必然、偶然、(時間総括、同時的総括)
 >>これらのカテゴリーを決定するのは誰か?『純粋理性批判』における「概念の分析論」を書いたカントである
  〜 カントによれば「論理的」でないはずの構造に、純粋理性批判における判断の枠組みを押しつけるという矛盾からくる、きしみ
 >趣味判断と論理的判断は異なるという言明と同時に為される、論理的判断の趣味判断への適用という矛盾
  〜「美しいものの分析論」の枠は超越論的分析論によって提供されるが、そのことの唯一の理由(*デリダによれば間違った理由)は、構想力が悟性に結びついているということである。>>だが、構想力と悟性の関連は確実でも本質的でもない
  (*構想力と悟性の関係は確実でも本質的でもない、というデリダの言葉をまじめに考えてみよう。構想力とは、簡単に言って、たとえいまだ存在しない対象についてであっても、再生産の能力であり、個別から普遍を抽出するための図式であった。--厳密には対象の産出においては産出的構想力と呼ばれる--。悟性とは概念を把握するための認識能力であり、先に引用した四つのカテゴリーを駆使してなされる判断である。ようするに、構想力の図式が望まれた対象--の概念--と一致するか否かを判定するのが悟性である。自分の描いたドラえもんがドラえもんに見えるかどうかは、・・・と言うことである。さて、カントによれば美的判断は概念を伴わないのであるから、美を判定する場合、悟性が目指すところは認識ではない。それは快/不快の感情に差し向けられる。さて、デリダがしつこく絡んでいる理由は何だろうか。デリダはこれは強引な枠--悟性概念のカテゴリー--へのはめ込みだ!と告発しているのだが、状況証拠を並べ立てるばかりで、肝心な、なぜ構想力と悟性の関連が本質的でないかということの理由を、ナカナカ述べない。イライラするので、デリダの「代弁しない」脱構築主義には反するかも知れないが、議論を接ぎ木すると、おそらく、ここで参照すべき事例は運動であり、芸術としての「ダンス」だ。あるいはこう考えても良い。デッサンは、形態やヴァルールを正確に再現する技術、見方を教えることはできるかも知れないが、絵画としての魅力、そのディテール、その経験を教えることはできない、と。)
 >「脱構築」は、再び枠にはめ込むようなことをしてはならないが、かといって、枠の不在を夢見るべきでもない。

痕跡展のユベルマン
no_title 有賀 [2006/11/11,15:53:08]
『痕跡展』には、ディディ・ユベルマンも寄稿してます。まともに批判した人っています?ご存じだったらどなたか教えてくださいね。
ところで、ここでユベルマンが話題にしているのは「航跡」という概念です。『残存するイメージ』にも通底するユベルマンの主張、すなわち、イメージを決定するプロセスの複雑さに価値を与える、という、このことのために持ち出された概念です。おおざっぱですが、こんな説明でつかみは終了。
一つの映画を2時間かけて映写しようが10分で映写しようが、内容は変わらない、と言うベルクソンの主張が紹介されていますが、ここでベルクソンが言っているのは、継起の順序と時間の拡がりは異なる、ということであり、数値化され測定可能であるような映画的運動によったのでは、こうした時間の拡がりそのものを捉えることができない、ということですね。ユベルマンはくそまじめに批判していますが、ベルクソンの真意は理解していると思います。(ベルクソンにとって物質性とは、ジャガイモを5秒で煮ることはできない、というリアリズムにあるのでしょうか?縮小・拡大不可能なもの、縮小・拡大すれば壊れてしまうもの、捉えられないものの介入、未だ神秘的であらざるを得ない現実というもの、それがベルクソンの言う物質性でしょうか?たぶん、そうなのだと思います。「実物大」の思想。)むしろ、ベルクソンの書いたものとは一見反するようにも見えますが、ベルクソンの主張は、本質的には、10分だろうと2時間だろうと一つの映画が与える経験が変わらないという事態(つまらない映画をビデオ屋で借りてしまった場合、われわれはしばしばこんな風にして映画を「見る」のではないか)、絵画を大きくしようと小さくしようと異なるものではないというような捉え方こそを批判しているのだと思います。つまり、そこ(ベルクソンのいう「映画」)には時間が欠けているのであり、ある一定の時間において必要なものとして含まれる全てのものが捨象されているという批判ですね。何一つ捨象され得ないということこそ、生成の必然性である。おそらくベルクソンが言いたかった時間というものは、スケールとしての必然的な実物大性とでもいうものでしょう。それが映画自身によって規定されているなら、映画の運動というものが存在することになるのではないでしょうか?
ところで、ユベルマンの視線はむしろ、作品を経験するために必要な時間ないし、制作に必要な時間ではなく、そこに含まれるであろう諸々の時間軸を歴史家の視点から、まさにベルクソンが批判するところの作られた運動として(カットの並列)導きだし、こうして得られた様々なる時系列を作品に投射するという誤りを犯しています。ユベルマンの目論見が「イメージ」を決定するプロセスの複雑さに価値を与えることであるとすれば、ユベルマンが導き出す「複雑さ」とは、超越的な視点から歴史を構成する歴史家の想像力の中にしかない。複雑な諸「系列」は、いくらでも増やすことができるし、その取捨選択における基準もユベルマンは示していない。そのような増減し、かつ煩雑であるような情報が、いったいどうして「イメージ」に価値を与えることができるのか、ユベルマンの書くものからは判然としません。ユベルマンはむしろ、ベルクソンが批判した当のものを愚直に実行しているのに過ぎないように、僕には思われます。そもそも表象批判のベルクソンが、表象文化の担い手ユベルマンに受け容れられるはずがないのですが。


パレルゴン
絵画における真理・閑話休題 有賀 [2006/11/10,06:05:11]
ナカナカ本題に入れません。すいません。
竜平くん、電話で話していた質問をしてくれてもよいのですけど、
とりあえず「目的なき合目的性」が話題になるあたりまで待ってね。

本業は進まず、バイトは低収入。ぐちぐち・・。

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